第1話「X.X.Xプリンセス登場!」part-C
それだけのルックスと身長と、おまけに運動神経が揃っていれば、学校でも大なり小なり注目を浴びることになる。
下駄箱用の鍵付きロッカーにラブレターが挟まっているのは、入学してから早くも二度目の経験だ。
「受け取らないっていうのも悪いしなぁ……」
女子から告白されても困るのだが、案外ファンレターということもある。
中学の頃は実際に貰ったのだ。
その原因は担任が光希の活躍を言いふらしてしまったことにある。
電刃忍者や戦隊映画の話は、光希としては自分から口外するつもりはなかった。あの時は顔を出したが、光希にとっての本命はスーツアクションであり、ほとんど裏方というべき本来は顔を出さない人間だ。
特撮系の雑誌インタビューや数秒だけの端役など、スーツ専門でも微妙に顔を出す機会はあれども、決して露出度が多いわけではない。裏方としての度を越えない、マニア向けのファンサービスで済むことなら、というのが光希の中での境界線だ。
それが学校で自慢話でもして、クラスメイトの気を引こうなんて話になれば、境界線を遥かに越えて大陸の向こう側にでも行く勢いだ。
ところが、担任が無断で口外して、そのために学校中に活躍が知れ渡ったことが影響で、女子からのファンレターを定期的に貰うまでなってしまった。
手渡しにやって来たり、下駄箱に入っていたり、先生がわざわざ生徒から光希宛ての手紙を集め、束で渡してきたことさえある。
おかげで学年の大半が映画館へ足を運んで、宣伝になったといえばなったのだが、光希としては俳優を目指したわけではない。
本命はスーツアクションだ。
だったら出演を断れば良かったのだが、そこを説得されたわけなのだ。
戦隊映画の時にプロデューサーが光希を説得した言葉は、あくまで子供に変えられた姿の役で、本来のピンクではない。女優さんの顔こそ本当の姿。みんな早く元の姿に戻って欲しいと思うはずだから、出たって顔なんて覚えられない言い張るものだった。
最後まで渋ったが、最終的にはアクションシーンをやらせてもらえるというエサに釣られ、そこで出演を許諾してしまった。
電刃忍者の時に光希を説得した言葉は、男装とは本当の素顔を隠す行為で、スーツほどではないが広い意味での着ぐるみだ。ファンは南条光希というよりも、南条辰巳の若い頃だと思って見る。十分に顔ごと別人になりきっている。
いや、その理論は強引過ぎないかと、その場で突っ込んだのは言うまでもない。
最後まで渋ったが、最終的にはアクションシーンとスタントシーンと、お望みのスーツアクションまでやらせてもらえるという極大のエサに釣られ、そこで出演を許諾してしまった。
裏方でいたいというのが、自分の本当の心ではなかったのか。
エサに釣られる方が悪いとしか言いようがないのだろう。
ただ、どちらにしても光希としては、自分よりも架空人物の顔を立てたい。その演じた先に存在する登場人物こそを見て欲しい。自らが目立つより、架空人物の方が輝いて、ヒーローが格好いいと言ってもらえることの方が一番だ。
創作志向というべきか。
言ってみればキャラクター製作をやりたくて、だから演技だのスーツアクターといった道を志すのだ。
作家が作品を褒めて欲しいのと似ているだろうか。
だから自分宛てのファンレターは、もちろん嬉しいのだが、真の意味で嬉しいものではない。
そうはいっても、せっかく書いてくれたのだ。まさか読まずに捨てるわけにも行くまいと、封筒を手に取った。
「――うん?」
そして、違和感。
紙というより、中身は何か粉でも入っているような、固い粒の感触が封筒を介して伝わってくる。それに閉じ方もやけに丁寧で、空気を少しも入れたくないかのように、あまりにもぴったりと糊付けして、テープまでして隙間を完全に塞いでいる。
何とか爪の先端で剥がしてやり、封筒を開いた瞬間だった。
「何ッ!?」
封筒から、白い煙が溢れて来た。
「馬鹿な! 何だこれは!」
まずは危険な煙ではないかと息を止め、咄嗟に投げ捨て、距離を取る。空気に触れた途端に煙を発するものでも入れて、悪戯のためにラブレターやファンレターのフリをしたオシャレな封筒を選んだのか。
悪質なのも腹が立つが、嫌な出来事が立て続けに起こっているのも不安を煽る。
ナイフを持った不審者に襲われ、家に帰れば大型の蜘蛛に襲われ、次の朝には煙の出てくる封筒である。
もしや特定の何者かが、光希個人を狙っているのだろうか。
だとしたら、何故?
一体、誰が――。
††
自分が狙われる理由で思いつくのは、せいぜいたった二回の顔出し出演経験で、よほど悪質なファンがストーカー化したということくらいだ。
刺されそうになるような、そんな身の覚えなど、まさかそれしかありはしない。
「これは睡眠ガスだね」
放課後の理科室で、先生に頼んで成分を見てもらった。
この学校に勤める白松教諭は、かつては城南大学の生化学研究室で研究に明け暮れ、一時期は科学教授としても活躍して、歳を取るにつれより多くの子供達に科学を教えたいという考えの下で教師の道に入ったという。
その白松教授が語るには、即効性の睡眠導入成分が多量に含まれ、吸い過ぎればおよそ一分以内で眠っていたことが判明した。
「光希くん。誰かがイタズラでこんな薬を使ったとするなら、それはとんでもないことだ。すぐに警察に言った方がいい。私も相談に乗るから、その辺りよく考えておいてくれ」
と言って、白松教諭はお手洗いへと理科室を離れていく。
間違いない。誰かが光希を狙っている。
だが、それはどうしてなのか。
相手は何者なのか。
ともかく、この理科室は科学部の活動に使われるので、用が済んだらすぐに出て行こうと顕微鏡を棚に片付け、廊下へ出ようとした。
――コツッ、
音が聞こえて、光希は引き戸へ伸ばしかけた手を止めた。
テーブルの板に何かが落ちて、例えるなら細い棒状の先端で板をつついた時にありそうな、そんな音に光希は振り向いた。
「――ッ!」
蜘蛛がいて、光希は戦慄した。
昨日の種類だ。
サイズでいえばさらに大きく、人間の手の平など軽く超えている。長い八本足を加えれば、その全長はゆうに二十センチ以上である。
それが、飛び掛ってきた。
果たしてこの種類の蜘蛛に、こんな跳躍力があったのか。そんなことを考える暇もなく、ただ顔に喰らいつこうとする相手に、反射的に腕で顔面を守っていた。
しかし、そのまま何秒待ってもだ。
今こうして飛びついて来たはずの大型蜘蛛が、実際に光希の腕に噛み付くことはない。
「……」
見れば、何もいなかった。
――夢?
妙にリアルな感じがしたのは、白昼夢でも見たからだろうか。
いや、とにかく帰ろう。
今度こそ光希は引き戸に手を伸ばし、取っ手の部分に指を引っ掛ける。戸を開けようと、腕に力を込めた。
「……開かない」
そういえば、閉めた覚えもない。
白松教諭も開けっ放しで出て行った。
鍵でもかかっているのかと確かめるが、閉まっているわけでもない。立て付けが悪いわけでも、レールに物が挟まっているわけでもない。それなのに思い切って力を込め、半ば乱暴にしてみてさえ、どうしても開かないのだった。
ならば反対側にあるもう一方の戸へ行って、そちらを開けようとしてみても、同じく開く様子がない。
さらに電気が消えた。
消灯のためのスイッチは黒板側の入り口前であり、この場所からうっかり押してしまうわけがないのは言うまでもない。
光希以外に誰がいるわけでもなく、なのに勝手に電気は消えた。
カーテンを閉め切った理科室の中は、その布地の向こう側から来る太陽だけに照らされ、若干の薄暗さに満たされていた。
そのカーテンの裏からだ。
窓の向こうに人が立っている影を見て、光希は全身から冷や汗を噴き出した。
ここは二階のはずなのだ。
あんな風に立って窓の近くにいられるような、まず足場からして存在しない。それなのに、窓とカーテンを介しながらも、こちらをじっと見つめているかのように、人影は直立不動でそこにいた。
「正体を確かめてやる」
光希はカーテンに迫っていった。
一歩、また一歩。
距離が縮まれば縮まるほど、そのカーテンの向こうには、本当は何がいるのだろうと、胸の中に不安をかきたてた。
光希はごく普通の一般人とは違う。
高所から飛び降りるようなスタントの訓練で、危険なアクションに対する恐怖心が、良かれ悪しかれ麻痺している。だからこそ緊急時であろうと冷静に、刃物を持った不審者相手に実力を発揮する。
同じ人間を怖がる理由が、ほとんど無いのだ。
だというのに、こんなにも胸がざわついている。
校舎内でも理科室の場所は隅の方で、運動部が校庭を駆け回る声や、教室で騒がしくしている生徒の喧騒が聞こえて来ない。
静寂と暗がり。すーっと心に、冷たいものが広がった。
一歩ずつ、一歩ずつ。
ついにカーテンを手掴みできる距離を迎え、人影は目の前に立っている。
「……」
手を伸ばしかけ、さらに冷や汗が噴き出てきた。
まるで空気全体がねっとりと、大気そのものが粘質化して、肌全体にへばりついてくるかのような嫌な感じが、人影と向き合うだけで重く身体に圧し掛かる。その感覚は、小さい頃に意味もなく暗闇を怖がるのとよく似ていた。
いる、という気がするのだ。何かが。
いや、何かはあるに決まっている。だから影がある。当たり前のことなのだが、その正体はもしかしたら、決して確かめるべきではない何かではないかと、そんな予感が途端に胸をざわつかせ、本能の奥底から警笛が鳴り響く。
見てはいけない、見てはいけない。
心のどこかが、必死なまでに光希自身へ叫んでいる。
だが……。
光希は、カーテンを手で掴んだ。
ごくりと、息を呑む。
あとは開けるだけ――
バサッ!
と、勢いよく、光希はカーテンを開け放った。
「……」
誰もいない。
今まであった恐怖の予感を全て裏切り、思わず安堵してしまうほど、本当に何も無く、ただ窓からの日差しが増えて、部屋全体の明るさが増すだけであった。
しかし――。
まさに安心したはずの光希は、その直後に戦慄の表情を取り戻した。
後ろだ!
自分の背後に何者かが立っている気配を感じ取るや否や、それがまずいものだと、危険な存在であることを早急に察知していた。
「トゥア!」
勢いよく、振り向く動作の回転を拳に乗せ、足腰からの重心移動さえも駆使して、実戦的にも優れた素早いフォームで拳の一撃を放っていた。
指貫グローブを固めた拳に、相手の鼻を潰した確かな手応えが跳ね返る。自分の拳を相手にバウンドさせるようにして、柔らかに素早く、一度使った腕を引き、秒間二発目になるパンチで続いて喉笛を潰しにかかる。
だが、手の平をすぅっと盾にして、男は光希の拳を握るように止めていた。
「誰だお前は!」
「…………」
男は答えない。
いつからそこに立っていたのか。いつの間にかとしか言いようがないほどに、気がつけばそこにいた男に対して、光希はさらに上段回し蹴りを放つ。長い足のリーチをしならせて、足の甲で顎を蹴り抜くも、男はなお動じない。
「何ッ!?」
その驚きは蹴りに無反応なことに対してではなかった。
男の半開きにしている口から、鼻から、耳からも、小さな蜘蛛がちらついて見えたのだ。
いや、さすがに気のせいだと、常識的な頭が、心の中でそう叫ぶ。
しかし、次の瞬間だ。
「馬鹿な――――ッ!」
まるで男の肉体が、蜘蛛という蜘蛛の数々を詰め込んだ袋であったかのように、顔面にある限りの穴から、大量に湧き出していた。
巣を叩いたせいで中身が湧き出るかのようでもある。
男の顔は瞬く間に蜘蛛に覆われ、蜘蛛の蠢きによって生まれた表面の厚みが、流動的なまだら模様となって、顔から首へ、腕や足まで広がって、それが床まで、やがては光希の足元にさえ及んで来ようとしていた。
さしもの光希も恐怖した。
何千匹、下手をすれば何万匹でもおかしくない、おびただしい蜘蛛の大群が、自分の体表を覆い尽くそうと迫って来る。生理的な忌避感にこれ以上なく顔を引き攣らせ、光希は懸命に逃れようと試みるが、男に拳を掴まれたままである。
腕が抜けない。どう力を込めても、その握力が光希の拳を捕らえている。
その腕から腕を伝って、光希の拳は既に蜘蛛に飲まれつつあった。
「くっ! 冗談じゃない!」
光希はすぐさま技をかけた。
本当に蜘蛛に飲み込まれるくらいなら、それよりも先に自分から距離を詰めてやり、光希の拳を掴むその腕に、力強いチョップを加えて肘関節を弱らせる。直後に思い切って、歯をかみ締めながら蜘蛛ごと胸倉を掴んでやった。
同時に、足を引っ掛けつつ、光希は横へ倒れ込む。わざと倒れてやることで、重心落下で相手を引っ張り、共に横倒れになるように導く方法だ。
これは極めて、大胆な深手を与えるための一手であった。
これほどの戦慄と恐怖に見舞われなければ、光希とてこんな対応はしなかっただろう。
男の倒れていく先には椅子がある。その角がちょうど側頭部に直撃して、光希自身は床に倒れるだけである。しかも身体の捻りを使って、可能な限り受け身を取り、自分だけはダメージを最小限に留めていながら、男だけに一方的な致命傷を与えていた。
さしもの握力も消え、光希は高速で立ち上がる。
そして、何歩も何歩も勢いよく、後ろ走りで蜘蛛から逃げた。逃げるにしても、決して背中を向けることなく、相手の様子を正面から直視しているのは、あの尋常でない蜘蛛の量が恐ろしいからこそ、その様子を見ないわけにはいかない命懸けの気持ちであった。
背中を向けたり、目を瞑るなどして、自分を襲うかもしれないものの様子をちっとも観察しないことこそが、よほど身の危険に直結する恐ろしい所業と心得ていた。
蜘蛛の様子は――。
ぴくりとも動かない男の内側へと、広がっていた蜘蛛の大群は帰っていった。
自分達の巣へ群がり、我先にと自分自身を穴にねじ込み、蜘蛛の蠢きによって出来ていたおそましい円形はその面積を縮めていく。
最後には、動かなくなった男だけが残っていた。
その男から、思い出したように血が流れ、床に赤い円が広がった。
がらんっ、
と、タイヤがレールを転がって、引き戸が横へ開ける音が聞こえたのはその時だった。
「あら? あなたは……」
一人の女子生徒が、きょとんとしたような不思議そうな表情で、光希の存在に気づいて目を合わせた。
こうなると、光希が焦る理由は一つ。
自分の手で仕留めたものが、こうしてそこに転がって――いない。
「え?」
何事もなく、血の跡さえ残っていないことに、光希は呆気に取られていた。
やはり、白昼夢?
おかげで女子生徒に死体を見られず、死んだとは決まっていないが、そうとしか見えない有様の男を目撃されずに済み、下手な騒ぎには発展しないことになる。
それはいい。夢なら夢で、それでよかったのだが……。
拳には、男を殴った際の感触がまだ残されている。蜘蛛が素肌を這いかけた戦慄と、危うく飲まれかけた恐怖の余韻が、光希の胸の中には漂っている。
果たして、本当に夢ではなかったのか。
しかし、夢でなけでば、どうして夢に過ぎなかったように痕跡が消え、さも何事も無い光景に戻っているのか。
気がつけば、一度は消えた電気の明るさも戻っている。
「あなた。もしかして昨日の――ブルーランドにいた方ですよね?」
「え? あ、ああ……」
「まあ偶然! 同じ学校だったんですね!」
「あ、うん。そうらしいね」
光希の姿を見たことで、嬉々として小走りで駆け寄る女子生徒は、確かブルーランドで弟を連れていた姉の女の子だったか。
そうだ。
男児に風船を取ってあげて、その姉弟のお姉さんだ。
妙な間を持って思い出した光希は、よくわからない夢のことなど忘れたいように、目の前の女子生徒に明るく喋りかけた。
††
「私は黒井川百合子っていいます。弟は茂です」
「へえ、百合子さんか。私は南条光希」
科学部所属である黒井川百合子は、日頃から幼い弟の面倒を見ている十五歳の高校一年。光希とは学年が同じだが、クラスが違っているため、他クラスに高身長の格好いい女子がいるとの噂は聞いていたが、実際に目にしたのは今が初めてだ。
それが、昨日の風船を取ってくれた人だとは、まさか夢にも思わなかった。
確かに光希は格好いい。
その外見やスタイルばかりか、体育の授業でも一人だけ、やけに運動神経の良さを発揮するから、とてもとても人気があるのだと聞いている。おまけに成績もよく、何かの映画に出たの出ていないのと、真偽のわからない噂まで広まっている。
無理もないと、百合子は思った。
女子同士で会話をするのに、こうして目線の位置を高めるなんて初めてだ。
見れば見るほど決まっている。ジーパンからなる足のラインも、指貫グローブを嵌めた手の形も、何もかもが格好いい。こんな人と少しでもお喋りが出来るだなんて、例えるなら好きなイケメンモデルや俳優と生で出会えた喜びに近い。
しかも、他の科学部の部員がまだ来ていない。百合子のクラスがホームルームを早めに切り上げたとはいえ、このチャンスに二人きりなのは余計に運の良いことだ。
「うちって、実は私が弟の面倒を見なくちゃいけなくて、それで連れていってあげたんです」
この機会に少しでも光希と喋ってやろうと、百合子は咄嗟に思いついた離しを振る。
「可愛い弟だったね。いくつ?」
「四歳です」
「そっか。偉いねぇ、百合子さんは」
「……そんな。光希さんこそ、ひょっとしてデートだったりして」
思いついたように、悪戯っぽく尋ねてみた。
これほどの美人が、まさか一人で遊園地に行くわけもあるまい。もしも付き合っている人がいるのなら、こんなにも美麗な人が選ぶ相手は、一体どんな人なのだろう。せっかく得た光希との喋る機会に、百合子は大いに好奇心を働かせた。
「残念。仕事でね」
「バイトなさってるんですか?」
「まあ、その。アトラクションというかイベントというか、その辺のね」
「何のお仕事ですか?」
当然の問いかけを行うと、光希は微妙に迷った顔をして、それから何故かはぐらかした。
「さて、何でしょう。また今度教えてあげる」
「え? そんなぁ、教えて下さいよ」
「だーめ、そろそろ行かないと。これから用事があるからさ」
「あ、今度こそデート!」
「どうだろうね。じゃあ、またね百合子さん」
そう言って、光希は軽く手を振って、理科室から出てしまう。
「さよなら、光希さん!」
百合子も明るく手を振り替えして、廊下へ出て行く背中を見送った。
そして、一人になってふと思う。
そういえば、光希はここで何をしていたのだろう。あって当たり前の疑問が、今更になって浮かんできて、まあ何か忘れ物でも取りに来たか、そのくらいの軽い用事だったのだろうと、百合子はすぐに気にも留めなくなる。
スクールバッグをテーブルの置き、その瞬間だ。
「――ひっ!」
足元に床に、蜘蛛の死骸がいくつも落ちていることに気がついた。
一匹や二匹ならともかくだ。どうしたら十匹以上も、潰れたように死んで体液を漏らしているのか。足や体毛の千切れた破片で軽く汚れが散っているのか。百合子には想像もつかない。
ただ驚いたあとは冷静になり、掃除用具のロッカーからすぐに箒とチリトリを持って来て、静かに床を綺麗にした。
また、話が出来たらいいな。
そんなことを考えながら、科学部での時間を過ごした。
しかし、翌日――。
南条光希は学校を無断欠席したらしいと、周りの噂話から小耳に挟んだ。