第1話「X.X.Xプリンセス登場!」part-D



 ただの風邪か何かなら深刻には心配しないが、周りの喋り声から伝え聞いた話では、それが無断欠席なのらしい。
 サボりだの、遅刻とは無縁のイメージしか沸かない光希がだ。
 休み時間中にスマートフォンの画面を点け、なんとなくニュースでも眺めていると、この龍黒県内で女子高生が何人か失踪しているという事件があった。
 まさか……。
 いや、そんなはずはない。
 明日になれば、またいつものように登校して、お喋りをする機会が巡ってくるだろう。いくら世の中の治安が悪くなっても、自分の知り合いが何かに巻き込まれる確率など、一体どれほどあるものか。
 それでも、もしかしたら……。
 まさかとは思っていても、心のどこかでは、どうしても思ってしまう。万が一、もしかしたら、光希の身に何かが起きて、それで無断欠席なのではないか。まさか考えすぎなのはわかっているが、漠然とした不安は止まってくれない。
 放課後を迎え――。
 あまり明るいとはいえない気持ちで校舎を出る。
 今日は幼稚園まで行って、弟の茂を迎えに行く日だ。両親が共働きで、忙しい母親との話し合いによって作られた取り決めで、母親が仕事の日は百合子が部活を休んで迎えに行く。そのための許可を幼稚園から貰っていた。
 子供達のはしゃいだ声が、近所の迷惑にならないためか。
 その幼稚園は住宅地から離れたところに建ててあり、学校から幼稚園の道のりには、あまり通行人は多くない。
「…………」
 一人で道を歩いていると、訳もないのに不安になった。
 やはり、治安が悪いからなのか。
 どんなに治安が良かったとしても、犯罪は決してゼロにならない。ならないからには、いつの世にも被害者というものが存在する。何かの事件が身近に起こって、自分がそれに巻き込まれるかどうかは、言ってみれば不幸の宝くじだ。
 毎日毎日、世界の誰かが必ず不幸の運命に当選している。最近の治安の悪化は当選確率を上げてくる。
 あくまでも、ぼんやりとした不安。
 本気で怖がるのとは違う。けれど普通よりも警戒心が働いて、もしかしたら自分の身にも何か起こるんじゃないかと、つい嫌な想像をしてしまう。
 そんな霞でしかなかった百合子の不安は、急に形を帯びることになる。
 
 百合子の前に白銀のバイクが停まった。
 
 後ろから追いついて、追い抜くように停まる運転手は、黒いジャケットの背中に薔薇のマークを刺繍している。
 降りて来た長身少女は、光希にも匹敵する美貌の持ち主だった。
 背も高い。足も長い。
 それが自分に目掛けて迫ってくれば、乙女心に思わずドキリとしてしまうほど、凛々しい眼差しの持ち主だが、会ったこともない見知らぬ人間が、急に声をかけようとしてきている事実に気づき、百合子は恐る恐る後ずさりをしていた。
「あなたは私立城南龍黒高校の生徒か」
 かなり、勇ましい声立ちだった。美声を野太くしたというべきか、例えるなら本当は可愛い声の持ち主が、顔立ちの濃い昭和の男前といった役柄を無理に演じてみたような、あるいは時代劇で刀を抜いて戦いそうな声を出したというべきか。
「そ、そうですけど……」
「なら、この女を知っているか」
 ポケットから、長身少女は一枚の写真を取り出す。
「光希さん……!?」
 百合子は表情を一変させた。
 どこか道端を歩いているときの光希の写真は、周囲の通行人の群れを背景として、カメラとは一切目線が合っていない。本人の許可を得ない隠し撮りでは、こうしたカメラの存在にさえ気づいていない様子の写真が撮れると、ドラマだったか漫画だったか、フィクションの中に登場した知識でたまたま知っていた百合子は、写真を見るなりゾッとしていた。
 この人は、一体何者なのか。
 もしも万が一、本当の本当に光希が犯罪に巻き込まれているのなら、この人は事件に関係のある人間に違いない予感から、どことなく恐怖を覚えた。
「そうか。この人を知っているのか」
「……だ、誰ですか? あなたは」
 百合子は慎重に尋ねた。
「私は一ノ瀬隼乃だ」
「どうして、光希さんのことを……」
「私の質問に答えて欲しい。居場所を知っているか?」
「居場所? 知りませんけど……」
 本当に知らない。知らないのだから答えようがない。それを追求されたとしても、学校を休んだのだから、家にでもいるのではないかと、そう答えるしかなかった。
「学校には来ていたのか」
「い、いえ……」
「そうか。わかった」
 たったこれだけのやり取りで、どことなく満足して、納得した顔を浮かべた長身少女は、用事は済んだと言わんばかりに背中を向け、バイクに跨り車体を立てる。
「十分だ。どうもありがとう。百合子さん」
 と、一応はお礼を言って、長身少女は去ってしまった。
 その薔薇のマークの付いた黒ジャケットの背中を見送り、どっと疲れた気分になった百合子は、不審者と話してしまった不気味な余韻に浸っていた。
 
     ††
 
 目を覚ました南条光希の脳裏には、まず自分が意識を失くした時の記憶が蘇った。
 家にまた大きな蜘蛛が出て、追い払おうと思いきや針が刺さった。そんな芸当が出来る種類は聞いたことがなかったが、口腔から射出してきたのだ。首筋に軽いチクリとした痛みを感じた時には、もう意識が揺らいでいて、そこで気を失ったはずである。
 気がついたらここにいた。
 ここは一言、秘密のアジトとでもいうべきか。
 どことなく薄暗いが、赤塗りにされた壁の色や天井の模様が判別できる。暗いにしても、物が見通せないほどではない。広さでいえば、テニスコートほどあろうこの部屋の奥には、壁に金属製のエンブレムが埋め込まれていた。
 古典的な悪魔が両翼を広げたイメージであろうマークデザインは、両目の穴だけを赤くしていた。
 組織やグループを象徴するマークなのか。
 気がつけば見知らぬ場所に自分はいたなど、どこか現実感のない出来事のようで、きっとリアルな夢だと勘違いしかけるが、こうも五感がリアルに働いている夢があるものか。肌に感じる部屋の温度に、舌が覚える口内の潤い、両腕を縛り付けている糸の食い込み。そのあらゆる要素の数々が、この非日常は残念ながら現実だと、光希に悟らせているのだった。
 背中と尻には、硬い木製の感触。
 自分は椅子に座っていて、今まで座ったまま寝ていたようだと、今更になってようやく気づいた。
『ようこそ、南条光希くん。我がテェフェルへ』
 声が、聞こえた。
 しかし、部屋のどこを見渡しても、声の主となるべき人間はどこにもいない。
「ここはどこだ! 私を自由にしろ!」
『私は君の目の前だ』
 それがエンブレムから出ている音声だと、そう言われて初めて気づく。
「姿を見せないつもりか」
『私の正体を知る存在は限られている。残念ながら光希くん。今の君が、この私の顔や姿を知ることはない』
 エンブレムの赤い両目が、まるで喋り声のリズムに合わせるように、電飾でもあるのか点滅を繰り返していた。
「何だと? お前は何なんだ」
『君はテェフェルに選ばれたのだ』
「何ッ!? 選んだだと?」
『我々が今現在求めているのは、頭脳明晰にして武芸にも秀でた女性。その条件に見合った君に目をつけ、これまで数々のテストで君を試していたのが、我らテェフェルだ』
「――っははは! 何がテェフェルだって?」
『私のことはさしずめテェフェル首領とでも呼んで頂こう』
「まるで悪の組織じゃないか。冗談にしては行き過ぎている」
『その悪の組織が存在するとしたらどうする? スーツアクターの光希くん』
「何を馬鹿な。そんなものがあるとするなら、さしずめマフィア、テロリスト、暴力団。私のようなごく一般の高校生を狙う意味は欠片も理解できないが、それがお前達の正体だろう」
『よかろう。お望みとあらば、我々の恐ろしさをその目で見るといい』
 その時――。
 ポン、と急に肩に手を置かれ、全身が凍りつく思いがした。背後に人が立っていたなど、そんな気配はまるでわからず、自分一人だと思っていたこの部屋に誰かがいるとわかった途端、光希は戦慄の汗を流していた。
 一歩ずつ、嫌にゆったりと、スーツを着込んだ男は光希の正面に現れる。
「お前は……!」
 あの理科室で出会った男であった。
『紹介しよう。栄えあるテェフェルの怪人。ゴライアスだ』
 すぐに男の姿は変貌した。
 皮膚が髪を飲み込むように、まぶたが癒着していくように、みるみるうちに変質していく男の顔は、つるりとしたのっぺらぼうでしかなくなっていく。そうなって男の顔は、さらに変化を繰り返し、まるで皮膚の下に黒い碁石を埋め込んだかのように、蜘蛛が持つような八つの眼を生やしていった。
 側頭部からは蜘蛛の八本足を模した突起物が、皮膚を突き破りながら生えてくる。
 顎の骨が二つに分かれ、皮膚が左右に裂けていき、変形した口器の形状は蜘蛛特有の鎌状の鋏角と化していた。
 細身の体格が全体的に、まるで風船でも膨らませているように筋肉が盛り上がり、サイズの一切合わないスーツは内側から引き裂けて、布切れの数々と千切れた繊維が床に散らかる。
 赤褐色の体毛が生えそろい、それが人間としての肌を余すことなく覆い隠して、両手の五指には爪が鋭く輝いている。
 それはもう、蜘蛛怪人と形容するしかない姿であった。
「ば、馬鹿な! そんな馬鹿な!」
 映像を介して見る分には、人が怪物に姿を変えるなど、CG技術でどうとでもなる。特に珍しい光景とは思わなかったことだろうが、それが目の前で披露され、確かに肉眼で形状変化を見届けることになったことが問題だった。
 怪物など存在するわけがない。
 そんな常識が、あまりにも簡単に覆された。
『この世界の住人にとって絵空事に過ぎない怪人が、我々の手で実際に作られている。怪人こそが世界を制し、その怪人を支配するのがこの私だ』
「……冗談じゃない」
 わからない。理解ができない。
 信じられない出来事を受け入れられず、困惑や焦燥ばかりにかられる光希の中で、ただ一つの感情だけが明確だった。
 こいつらは危険だ。従ってはならない。
 そこに怪人が立っているというだけで、どす黒い何かがそこから噴き出し、空気を汚染している気さえする。目の前の相手は殺戮を喜び、どんな残酷な殺し方でもやるに違いないと、何の根拠も理由もないのに確信を抱かされる。
 そんな邪悪の仲間など、決してなるべきではない。
『君は選ばれた人間だ。我がテェフェルの一員となるのだ』
「冗談じゃない! お前達の操り人形になってたまるか!」
『君の意思に関係なく、そうなる未来はほぼ確定している。君をテェフェルの一員として迎え入れるための準備が着々と完了しつつあるのだ。君にとって、今この瞬間こそが、本当の南条光希でいられる最後の時間となる』
「なんとしたって、従わないといったら従わない!」
 光希は立ち上がり、大胆な足のスイングで椅子を蹴り飛ばした。蜘蛛怪人ゴライアスにぶつけるが、ゴライアスはまるで鬱陶しい蚊を手で払いのけたい程度の気軽さて叩き飛ばし、その砕けた木片と背もたれのへし折れた残骸が、床に無残に転がった。
『ほう? 戦おうというのかね。怪人と、その生身の肉体で』
「ここで戦わなければ、この魂は寂れた廃墟も同然。一体お前達が、どんな方法で私を悪の一員にするつもりかは知らないが、そうなるくらいなら命を賭けてもお前達に挑む!」
『よかろう。その準備完了の時間まで、ゴライアスよ、遊んでやれい!』
 その瞬間だ。
 即座にキレの良い回し蹴りが、腰の回転を交えて光希の側頭部を狙っていた。
 だが、それは光希の鼻先を辛うじて掠めるか否かといった際どさで、ギリギリのところで空振りに終わった。そのような微妙な避け方を、光希はあえてやったのだ。相手の攻撃から逃げながらも、最大限に距離を意地して、こちらの反撃に繋げるためだ。
 そんなギリギリの避け方ができるのは、それだけ武術経験豊富だからだ。
 相手の手足のリーチを目測で見切れば、あと何センチ動けば当たらない位置にいられるか、その正確なところがわかる。試合や稽古の中でいくらでも蹴りを浴びた経験則から、直感だけで必要な回避距離を理解していた。
 もちろん、リーチを見切っただけではない。
 より安定した足腰から回し蹴りを放とうと、ゴライアスは微妙に両足を整えていた。その予備動作を見た時点から、相手がどう動くかといったイメージが頭に沸き、それに対する自分の動きが自然と脳裏に構築された。
 次は、パンチだ。
 回し蹴りのため、高く持ち上がった足をゴライアスは、叩きつけんばかりに振り下ろす。この足裏を床に叩きつける踏み込みで、荒々しいパンチを放つ。腹部狙いと読んだ光希は、自分の身体を真横へ動かすための足運びで、またもギリギリで接触しかねない避け方を行った。
 ぶちりと、光希の両腕を縛る糸が千切れる。
 これが狙いだった。
「トゥア!」
 逆に光希の上段回し蹴りこそが、相手の側頭部を打ち抜いていた。
 ――効かない!?
 戦慄した光希は即座に足を引き、バックステップで数メートル後方まで退いた。
 光希が放った回し蹴りは、軸足を浮かせ、体ごと当たりに行く蹴り方だ。予備動作として膝を沈め、足のバネまで使って威力を上げ、重心移動の重みがたっぷり乗せられた一撃は、脳を揺るがす頭の急所ということもあり、かなり危険な蹴り方だった。
 ならば、折れている椅子の足を拾う。裂け方によって尖った部分で、皮膚を突き破ろうと刺突を繰り出すも、それさえゴライアスには効いていない。皮膚を抉るどころか、通過すらせずに鋭利な先端部の方が折れていた。
 そこから即座に腕を引き、喉笛目掛けた拳の突きを放った。喉を潰しにかかるなど、普通は人にはやらない攻撃だが、まともに直撃していながらゴライアスは無反応だ。
 指で目潰し、背後に回って後頭部を打ち、膝裏蹴で姿勢を崩して引き倒すための技で頭を地面に打ち付ける。しかも倒れた頭を踏みつけ、ジャンピングから膝まで落として、もはや殺しにかかる勢いで痛めつけた。
 あらゆる危険な方法を試してなお、ゴライアスは無傷でいた。
 痛みを感じた様子もなく、さも平気そうに立ち上がる姿に光希は、目の前にいるものが一体どれほどの怪物なのか、ますます実感させられていた。
 
 ――プシュゥ!
 
 スプレーの噴射音に酷似して、口腔から何かを噴き出す音に反応して、咄嗟にしゃがんだ光希の背後では、その壁には蜘蛛の巣が張り付いていた。
「……糸を……吐いただと?」
 そんな驚愕などしているあいだに、ゴライアスは足を高らかに振り上げる。
 かかと落とし――横へ転がり抜けてかわすと、たった今まで光希のしゃがんでいた床は、放射状の亀裂を広げ、若干の破片を散らしていた。
 
 どうすればいい!?
 こんな化け物をどうすれば!
 
 切迫した光希を余計に動揺させたいような、こんなタイミングで後ろの壁が、突如としで砕け散った。
「何ッ!?」
 外から内へと、粉砕した壁の大小様々な瓦礫が広がり、その煙を突っ切るようにして、一台のバイクが光希の目の前に駆けつけた。
 もう理解が追いつかない。
 ただ運転手のいないバイクが、壁を突き破るように現れて、光希が本能的に理解したのはこれで逃げればいいということだけだった。
 白銀のバイクに跨る瞬間、人のバイクを勝手に使うのかという常識が、一瞬ばかりよぎったものの、そこに怪物がいる状況で持ち主のことを考えている余裕はない。そもそも、まるで光希を助けたい誰かが、その姿は見せずにバイクだけを寄越してくれたかのようでもあった。
 光希は直ちに操作を行った。
 速い、かなりの性能だ。
 あたかも瞬間的な切り替えを行うように、停止状態から百キロ以上の速度へと、一切の助走もなくタイヤは回り、ほとんど急に吹き飛ぶように、一瞬で姿が消えて見える勢いで、光希はこのアジトを飛び出していた。
 そして――。
 光希の目の前に広がる景色は、人里離れた山中だった。
 夜だった。
「…………」
 半ば呆然とした。
 光希がこうして出てきたはずの建物が、振り向いても見当たらない。急にぽつりと、山に広がる緑の景色の中に置かれて、どうして自分がこんな場所にいるのかもわからない。
 だが決して、夢でも見ていたのだろうという気にはならない。
 この出来事を証明する白銀のバイクに、こうして光希は跨っているのだ。
 
     ††
 
 コーヒーを淹れ、ブラックの香りが詰まった熱いカップを口元に運ぶ。小学生の頃には背伸びで飲んだブラックだが、今となってはこの苦味が純粋に口に合う。
 果たしてあの化け物に、テェフェルとは何なのか。
 無人で走る自動操縦のバイクを寄越して、光希を救ってくれたのは何者か。その白銀のマシンには見覚えがある。ただ道をすれ違うだけの長身少女が乗っていて、ちょっとした通行人が妙に印象に残ったので覚えていたという話だが、まさしくそのバイクに救われたのだ。
 勝手ながら、そのバイクを使って帰ってきた。
 人のものを勝手に持ち去ってしまう後ろめたさは大いにあったが、テェフェルから脱走したばかりの場所で、持ち主のいないバイクを置き去るのは、自分を救ったマシンをみすみす連中に渡しかねない危険性が頭をよぎった。
 あの山中で数分ほど待ちはしたが、いつ来るかもわからない持ち主を待つために、危険かもしれない場所に長居をしているわけにもいかず、使わせて頂くことにしたわけだ。
 逃げたはいいが、やはりまた狙われるわけだろうか。
 警察がアテになるならいいのだが、一体どのように説明したものか。仮に動いてくれたとして、あの手の怪物に銃弾が効かないなどよくある話だ。実際に殺しにかかって傷一つ与えられなかった以上、銃が効かない怪物というものが若干の現実味を帯びている。
 その時だった。
 
 電気が勝手に消えた。
 
 急な暗闇に驚いて、若干ながら目を丸めた光希は、視界が黒く塗り潰された中を歩いて、慎重にスイッチへ向かう。夜目が利く方なので、暗闇でも少しはどうにかなる。壁のスイッチのところまで行き、何故か切られていた電気を付け直す。
 テーブルに戻ろうとして驚愕した。
 
 テーブルには、トーテムポールの置物があった。
 
 三段積みの木彫りの顔が、その丸く整えた上に彩色を施した目玉が、光希をじっと見つめていた。 
『南条光希くん』
「その声はテェフェル首領!」
『まもなく準備が整う。君を迎え入れ、晴れて悪の一員とするための準備だ。我々の脳手術を受けることで、悪の素晴らしさを理解するように君もなるのだ』
 通信機器でも仕込んでいるのか。
「冗談じゃない!」
『今に迎えが来る。大人しくついてくるのが身のためだ』
 その言葉を最後にトーテムポールは急に弾けた。まるで火薬の破裂のように、白い煙だけを残して、テーブルには木片の一つも散ってはいない。文字通りに跡形もなく、そこに物が置かれていたという唯一の証拠である煙も、やがては大気の流れによってかき消えた。
「迎えが来る?」
 光希は眉を顰める。
 
 次の瞬間、インターフォンの音が響いた。
 
 しかし、壁に取り付けてあるモニターを覗いても、玄関の外には誰もいない。何も映っていないにも関わらず、誰も出てこないからもう一度試しに押したがごとく、インターフォンの音声だけが無機質に鳴り響いた。
「脅しのつもりか!」
 光希は堂々と玄関へ向かっていき、勢いよく外に飛び出す。
 やはり、誰もいない。
 
 ――バン!
 
 玄関ドアが勝手に、叩きつける勢いで閉じていた。
 その音に振り向いて、閉じてしまった玄関に目を奪われ、硬直しているあいだに背後に人の気配を感じる。
「ゴライアス!」
 光希が蜘蛛怪人の存在に気づくや否や、その鎌状の口器からゴライアスは糸を吐く。咄嗟の膝の脱力で、素早く腰を落とした光希の頭上には、ペンほどの太さをした白い糸が、ゴライアスの口から玄関へと、直線的にピンと真っ直ぐ貼っていた。
 ドアに対して、粘着力によって付着している。
 そうやって捕らえるつもりなのかと悟った光希は、ガレージへと、真っ先に白銀のバイクへと駆けていく。
 当然、光希を逃がすまいとして、ゴライアスは鎌の口器の開閉で糸を切り落とし、新しい糸を吐き出した。
 冷静でいられればわかることだ。
 そして、焦りに囚われないための精神的な切り替えは得意だった。
 こちらはバイクで逃げたい。向こうはそうさせたくない。だからバイクへ向かって行けば、その瞬間を狙って来る。
 光希は自分自身にブレーキをかけ、二発目の糸もかわしていた。
 動く標的に当てるためには、その少し先を狙うはず。それにゴライアスの挙動を観察して気がついたのは、相手に狙いをつける際、首を後ろに引っ込めて、前に突き出しながら吐き出している予備動作の存在だ。
 単なるクセか。それとも身体の仕組み上、理由があってやる動作か。そんなことはわかりもしないが、糸の射出を事前に読みうることさえわかれば、あとはボディを駆使して狙いを誘導してやればいい。
 得意だった。怪人の能力をイメージするのは。
 ヒーローショーであれば、客席から見た自分の動きはどうなっているか。撮影であればどのようにカメラに映るか。外側から見た自分の形を思い描くのは、スーツアクターとしての訓練を培った光希にとっては日常でしかない。
 糸を吐く。ハサミを振る。空を飛ぶ。
 怪人がどのように動いてくるか、そのピンポイントな想像力は常人を遥かに超える。そこに武術稽古で得た身体操作と、さらには直観力まで加われば、いかに怪物相手であろうと、避けるだけなら何とかなる。
 バイクへ向かって糸を出されたから、逆方向へ慌てて逃げる――と、そう見せかけるためのボディフェイントで、思い通りの方向へと糸を撃たせて、それと同時に素早くバイクへ飛びつき跨った。
 驚くほど起動が速い。
 エンジンをかけた直後には、もう最高速度でマシンを飛ばせてしまうなど、傍目には光希がバイクに跨ったと同時に消えてしまったと、爆発的なエンジン音と排気口のパイプから出た煙だけが急に残されていたと感じるはずだ。
 だが実際には、ただただガレージからバイクを出したに過ぎなかった。