第2話「怪魔次元から来た少女」part-D



 甘えずにはいられなかった弱さがある。
 光希の家に住まわせてもらえることとなった一ノ瀬隼乃は、それまで自分一人きり、この世界を彷徨っていた。
 別世界への移動を行えば、隼乃のことを知っている人間など世界のどこにも存在しない。
 そんな当たり前のことは覚悟していたつもりだったが、いざ地上を出歩いて、都会の道行く人々の姿を目にしていると、途端に猛烈な孤独感に襲われた。これだけ大勢の人間が歩いているのに、その誰もが隼乃の存在を知りすらせず、気にも留めない。
 いや、もっと言えば、この世界そのものが一ノ瀬隼乃の存在を知らずに回っている。きちんとその世界に生まれ育った人間と違い、次元を超えた余所者など、きっと次元を超えた異物混入なのだろう。
 世界が隼乃を知らないように、隼乃にとってもこの世界には、知っている景色がどこにも存在していない。身に余るステージに立つどころか、世界そのものが、隼乃にとって場違いなのだと思えてならなかった。
 だが、光希に会えた。それがこの世界到着から数日以内の出来事など、どれだけ運がいいのだろう。光希の申し出があったとき、実のところ泣きたくなるほど安心して、迷惑をかけてはいけないと思いつつも、結局は甘えてしまった。
 一応、光希の言う通りだ。テェフェルに光希を渡すわけにはいかない。そして光希は隼乃に恩がある。甘えや迷惑などといったことは抜きに合理的に考えれば、この家にいた方が一番なのは確かであった。
 母親がいないという理由で、昔から空き部屋になっているらしい部屋を借り、借りたパジャマでベッドに潜った隼乃は、柔らかなシーツの感触に癒されながらまぶたを閉じる。
 最初は野宿していた。改造された肉体では風邪など引かず、隼乃にとって脅威たりえるのは怪人だけだ。痴漢だの暴漢だの、欠片も気にすることのない分だけ、普通よりも気軽にベンチに寝そべった。
 無戸籍であること、収入や住居のこと。
 世界の移動を行ったら、必ず解決するべき問題は、もちろん想定していた。初日や二日目あたりはとりあえず寝そべったが、そのあとは路上生活の女性を見つけて交渉して、借りた戸籍で日当を手に入れた。
 いざとなったらテェフェルの資金強奪により、組織に打撃を与えつつ自分の懐も暖める一石二鳥の手段もあった。そういうわけで衣食住については、実際は自分一人でもどうにかなりはしたのだ。
 それでも、やっぱり光希に甘えてしまった。
 ともあれ、最初の数日はそういう生活で、ベンチの次はインターネットカフェのソファを寝床にしていた。ちゃんとベッドで寝るのは、この世界では始めてになる。
 温かいベッドで、落ち着いた眠りに落ちて、朝になったら目が覚めた。
 二階から一階のリビングまで下りていくと、もう起きていた光希が朝食用に目玉焼きを炒めている最中だった。
 トーストとコーヒーの香りが漂い、鍋には熱いコンソメスープもある。
 ……贅沢な食事だ。
 隼乃の世界で朝食といえば、貴重な食材が勿体ないので、ほとんどお湯に近いほど味を薄めてあるスープ。出来が悪いので粗悪であまり美味しくないパン。どこぞの工場で低コストで生産できるらしいレプリカの肉類は、お世辞にも本物の味を再現しているとは言いがたい。
 やっぱり、美味しかった。
 目玉焼きを破いた中から、とろりと溢れる熱々の黄身の味と、こんがり焼けた表面の内側はふんわりしている食パンが口内で交じり合い、あいだに挟まるベーコンの肉の塩気がさらに味を引き立てる。
 味のきちんとした濃さをしているスープと、すっかり火が通ってトロトロに柔らかくなっている玉ねぎがたまらない。
 豆の香りが漂うコーヒーが鼻腔に流れ込んでくる。
 幸せだ。本当に幸せだ。
 こんなに美味しい食事が、お母さんと一緒にできたら――滝見零と一緒にできたら、一体どれだけ……。
 思えば元の世界では、誰一人として本心を語ることなく、ずっと心の仮面を厚く被せて生きてきた。本音を語り合える相手はもういない。
 零は一体どうしているだろう。その生死さえもわからない。たとえ生きていても、まともな運命は辿っていない。
 何だか泣けてきた。
 この世界にとって、こうして隼乃が食べているのは、どこの家庭でも普通に用意できるものであり、贅沢品と呼ぶには程遠い。
 そこまで、当たり前なのだ。
 少し生まれた世界が違っただけで、こんなに美味しいものを日常的に食べられる。怪人社会に本心を見抜かれたらどうしよう、などという恐怖も抱かなくていい。まして思想がばれただけの理由で、母親を目の前で処刑されたりもしない。
 思えば思うほど涙が滲んで、気づけば心配そうな不思議そうな表情を浮かべた光希が、隼乃にティッシュを差し出していた。
「大丈夫?」
「…………」
 返す言葉が浮かばず、隼乃は無言でティッシュを受け取った。
 あまり日常的な会話は得意ではない。
 心の中身を隠すのは慣れていた。思想がばれるか否かは死活問題だったからだ。隠すことに慣れすぎていて、曝け出すということがわからない。こうして涙が出てくる理由を、一から順に説明でもすればいいのか。もっと他に言葉があるのか。そもそも、光希にそれを話して何がどうなるのかもわからない。
「嫌なことでも思い出してる?」
 嫌なこと、なのだろうか。
 いや、もっと怖くて、泣いたり叫んだりしたような思い出だ。
「…………」
 無言の隼乃は、首を横に振る。
 この世界のことが羨ましいのかもしれない。
 元の怪魔次元で同じように暮らしたければ、戦いの末に怪人社会を変え、人間の自由を勝ち取る以外に方法はない。そんなことはしなくても、当たり前のように毎日を過ごしている世界のことが、羨ましくて妬ましい。
 自分と零とお母さんが、みんなでこの世界に生まれていればよかったのに……。
 それでも、そんな人生があったとしても、やっぱり怪魔次元の大皇帝は多次元征服の野望を目論んで、この次元にテェフェルを送り込んでいるのだろう。隼乃のような境遇の持ち主が、人知れず戦いに挑んでいるのでなければ、たとえ幸せな人生に生まれていても、結局は――。
 そう思うと、やっぱり……。
 誰かが戦うしかない。
 諦めて戦うしかないのだ。
「今日さ。一緒に出かけない?」
「……どこへ」
「町に出て、アイスを食べたり、たい焼き食べたり? 色んなお店で、色んなものでも食べてまわらない? 今日は学校ないしさ」
「…………」
 どうしよう。複雑だ。
 それが零と一緒にできたらと、きっと自分は考える。光希と一緒に歩いていながら、心の中には別の人間を浮かべることになってしまう。誘ってくれた光希に失礼になるのがわかっていて、だから返事ができずに無言を貫いたままでいてしまう。
「嫌かな?」
 そう問われると、嫌というわけではない。
 だったら、また首を横に振るしかない。
「…………」
 何も言わず、横に振った。
「じゃあ、決まりね」
「う、うん」
「この世界の色んなものを見せてあげる。なんたって、隼乃は恩人だからね」
 光希は感謝してくれている。
 けど、違う。
 隼乃が光希を助けたのは、同じ仮面プリンセスと戦う羽目になる最悪の事態を防ぐため、つまるところは自分のためだ。適合係数によっては普通の人間でも変身はできるが、テェフェルは間違いなく改造手術を行うだろう。強化された肉体にドレスアップが重なれば、並みの怪人など敵ではなくなる。
 強敵を増やしたくない、ただそれだけの理由だった。
 本当に自分は恩人と呼ばれるべき人間だろうか。
 
     ††
 
 テェフェルにとって南条光希は二度と見つからないほどの逸材だった。
 隼乃から奪い取ったローズブレス――すなわちドレスアップシステムは、適合係数さえ高ければ普通の人間でも変身できが、素人が超人になったところで脅威にはならない。
 単純な強化服や改造手術が一段階のパワーアップとするならば、怪人はただ肉体強化を行うだけでなく、あらゆる動植物の能力を取り込んでいる。強化された肉体と、異なる生物の能力とで、怪人という時点で既に二段階のランクアップに相当している。
 さらに組織所属に選ばれる怪人は、自分の能力や形状に合わせた固有の格闘術を会得して、それぞれ自分にしかない武器を使いこなす。目安上、そうした格闘技経験を一ランクアップと数えるならば、テェフェルの怪人は通常の人間から見て三段階の強化を重ねた存在となる。
 無論、目安は目安に過ぎないが。
 一般人が強化服による変身を行って、たった一段階のパワーアップを行っても、三段ランクの怪人とは元々の次元が違いすぎる。
 強化された肉体、強化服変身、本人自身の強さ。
 この三つのパワーアップを全て取り込んでいる隼乃だからこそ、怪人と同一のランクに立って同じ土俵で戦える。互角どころか、脱走時に四体もの怪人を圧倒した強さは、隼乃自身が訓練によって獲得した技量のためだ。
 この三段ランクの領域でなければ、怪人とは戦いにすらなりはしない。
 改造、変身。
 二段ランクまでの力は外部から与えることが可能だが、格闘技量や経験則などは本人が会得しない限りどうにもならない。
 光希にはその武術技量があるのだ。
 その上でドレスアップシステムの適合係数を満たし、三段ランクの領域に立てることが初めから保障されている。そんな『女性』をもう一人探せと言われても、いないものは見つからない。光希ほど強い女子など普通はいないのだ。
 ドレスアップシステムの使用者が女性でなくてはならないのは、開発者である父が娘を戦士に仕立てる前提で生み出したためだ。変身時に発生するエネルギーが、強化服を通じて全身に行き渡り、超人的能力を獲得できるが、それには体質一致がなくてはならないことが判明しており、隼乃に着せる前提で作られた強化服は、隼乃に近い体質でなければ着こなせない。
 二度と発見できないであろう逸材には、とっくに隼乃のガードがついてしまった。
 こうなれば光希の身柄確保は困難だ。
 裏切り者を抹殺したくて光希の拉致改造を試みたのに、その光希を捕らえるために隼乃と戦う必要があるようでは意味がない。
 作戦を切り替える必要がある。
 たとえば質の低下は否めなくても、別の適合係数の高い人間を用意して、その他の怪人と組み合わせたグループ隊を仮面プリンセス抹殺に向ける手も考えられる。
 問題は隼乃自身の戦闘技量で、本人自身の強さという部分が並みの怪人より優れている。実質四段ランクの強さと見た方が良いレベルだ。そんな化け物と戦える部下を、みすみす仮面プリンセスに殺させたくはないのだが、その有力人材が潰れるリスクを犯さなければ、まともな戦闘では勝ち目が薄いところが悩みどころだ。
 マンモス将軍は頭を抱えた。
 自分の手で抹殺しに行く道も大いにあるが、キングマンモスのパワーは消耗率が激しく燃費が悪い。ほんの数分維持できればいいような力ではシルバーXを倒しきれない。それを向こうもわかっているので、おそらく次に戦うときは持久戦にでも持ち込まれ、スタミナ切れを狙われて終わりである。
『マンモス将軍よ』
 テェフェル首領の声が――本当に本人の声かどうかもわからない声が、マンモス将軍に呼びかける。
「は、首領」
『裏切り者の一ノ瀬隼乃抹殺に失敗し、今度は南条光希捕獲にも失敗した。このまま失態続きではお前の立場も危ういぞ』
「承知しております。既に次の作戦を考え、実行するところであります」
『して、その作戦とは』
「我々はまず、対シルバーXのための適合者捜索によって、南条光希以外にも何人かの候補者リストを作っています。そのリストの中には、黒井川百合子という南条光希の知り合いがいるのです」
『ほう? その黒井川百合子を利用することがお前の作戦というわけだな』
「首領。今に見ていて下さい。必ずや一ノ瀬隼乃の首を持ち帰ってみせましょう」
『うむ、マンモス将軍。期待しておるぞ』
 テェフェルの調べでは、隼乃も一度は百合子と接触した。
 死んだゴライアスからの情報である。
 共に世界を支配するはずだった同胞の命は無駄にするまい。
『一つだけ忠告しておく』
 テェフェル首領は言う。
『お前は仮面プリンセスをただ倒し損ねたのではない。そこには甘さがあった』
「甘さ? この私に甘さですか」
『それがお前の良いところであり、最悪の欠点でもある。よく考えておくことだ』
 自分に、甘さ――わからない。
 組織の中枢を担う立場としては、テェフェルの存亡に関わる裏切り者とわかった時点で、即座に心を切り替えたはずだ。殺すつもりでいたはずだ。本当に殺そうとして逃がしたはずだ。その自分が甘さを指摘されなくてはならないことが、マンモス将軍にはわからなかった。
 
     ††
 
 いつ家に帰っても、必ず電気が消えていて真っ暗で、自分の手でスイッチを入れて、初めて部屋が明るくなる。父親から振り込まれる生活費と、自分自身で稼いだおこずかいで暮らす南条光希は実質的に一人暮らしも同然で、だからふと寂しくなる。
 母親が生きていれば、兄弟か姉妹でもいれば、なんてことを考えたのも、一度や二度の話ではなかった。
 光希は図太い。だが、強いから寂しくても平気というのは、逆に言えば耐えられこそすれ何も感じないわけではない。
 しかし、急に舞い込んできた隼乃との出会いは、姉妹というわけではないが、それに近いものが手に入るチャンスに思えて、おまけに仮面プリンセスを身近に置いておくべき事情まで重なっては、もう自然と二人暮らしに誘っていた。
 それに、たまには友達と出かけてみたかった。
 アクターの仕事やアクション関連の稽古など、学校が終わるなり山野剣友会の本部へ直行している光希は、放課後に誰かと寄り道をして遊んだのが、今までの人生でも数える程度の回数だけだ。
 それを具体的に気にしたことはない。友達と楽しんだり、彼氏を作るといった青春を犠牲にしている自覚すらなく、むしろ本人の頭の中では険しい努力の道こそ、大切な青春ということになっているほどだ。
 ヒーローショーで仕事をやる。アクション撮影で仕事をやる。
 そういうことに時間を捧げることこそが、光希にとっては素敵な恋人とドキドキのデートに出かけることに匹敵していた。
 だから光希は、隼乃と一緒にお出かけして、色んなお店を見てまわったり、美味しいものを食べてみたいと、そんな願望を抱いた自分自身に対して「あれ?」と、どこか首を傾げているような有様だ。
 そういえば私って、あんまりクラスの友達とは遊んでないな。
 などと、日頃は忘れていることに気がついて、そうなるとオススメの店だの、お気に入りの食べ物だの、そういうことには疎いことにも考えが及ぶ。
 きっと夢に向かって励み続ける道こそが自分の所属する世界のようなもので、クラスの友達と出かけるような、当たり前の日常の世界の住人じゃない。だから日頃は忘れているし、自覚もないが、とにかく光希の場合、普通に友達と遊んだ思い出が一般人よりも少なかった。
 もっとも、自分の住む町だ。
 まさか道に迷いはしないし、歩けば見かける店くらいは頭にある。
 まあしかし、何も一世一代のプロポーズを賭けて、何が何でも失敗できない、人生でもかかったデートをするわけではない。それこそ、ちょっと出かける程度のことで、あまり難しく考えても自分自身へのプレッシャーになるだけだ。考え込むばかりで尻込みして、結果的に何もしないで終わるより、それくらいなら適度に軽く考えてみた方がいいだろう。
 しかし、問題はそんなことではなかった。
 
「で、まだ決まらない?」
 
 アイスクリームの屋台で隼乃は、ずっとずっと迷っているのだ。
 あれ、と指を指しながら、アイスに興味を持った様子なので、じゃあ並ぼうかと順番待ちをするまではよかったが、いざ順番がまわると迷いに迷い、隼乃は延々と唸り続けている。写真のメニューを睨むだけでもうどれほど経過していることか。
「ねえ、もう五分以上経つよ?」
「………………」
「うしろ、待ってる」
「…………」
 光希の声が聞こえているのかいないのか。こうなると、後ろの列から降りかかる、まだ選んでいるのか長いな、という苛立ちに次ぐ苛立ちの数々のプレッシャーは、もっぱら光希一人の背中を押しつぶすことになる。
「他に順番待ってる人もいるから!」
 耐えかねた光希は、たまらずに隼乃をせかす。
「うるさい! こんなに種類が多いんだ! おまけに組み合わせが自由だと? どうしてこんなにも選ぶ自由があるんだ! 時間をかけずにいられるものか!」
 すると、隼乃も反論する。
「しょうがない。この子には――」
 ならば奥の手で、光希が勝手に隼乃のアイスを選ぶ恐恐手段に出ようとするが、すると隼乃はますます反抗する有様だ。
「勝手に決めるな! せっかくの別世界でまで自由を奪われたくなどない!」
「じゃあ早く決めてってば!」
「全ては組み合わせが自由なのがいけないんだ! バニラもイチゴもあって、好きな種類を好きな組み合わせだと? 時間がかからない方がおかしい! むしろ時間をかけない人間は、真面目に選んでいないんじゃないか?」
「そんな受験生がテストの問題解くよりも真剣な顔してアイス選ぶ人いないから!」
「何ッ!? これだけ人が並んでいるのに、誰も真剣ではないのか!」
「わかった! 一旦後ろの人に順番を譲ろう! ちゃんと決めてからもう一度並ぼうね」
「……そうか。いいだろう。その提案でここは私が下がるとしよう」
 改造人間の超視力をもってすれば、何メートル後方からでもメニューを凝視し、さらには味それぞれの匂いまで嗅ぎ分けられるらしいので、ずっと離れた距離から隼乃は、アイスクリームの屋台の方向だけに視線を釘付けにしていた。
「……選べる。選べるんだ。選ぶとも、選んでみせる」
 十分以上の時間をかけて、やっと決断を下した隼乃のために並び直して、今度こそアイスを手にした隼乃は、じっとじっと見つめてからぺろりと舐め、必要以上に大切そうによく味わって食べていた。
 溶け始めるのを見て、もうそれ以上は時間ばかりかけられないとわかった隼乃は、また泣き出すのではないかというほど名残惜しそうに食べきった。
「美味しかった……」
 アイスの味だけで涙目にまでなっていた。
 怪魔次元での生活など、光希には想像することしかできはしない。
 怪魔次元とは、複数の世界を呼び分けるための便宜上の呼称らしく、光希の住むこの世界はナンバリングでナンバー〇一次元と呼ばれるらしい。
 平和が当たり前の国に生まれて、正直なところ同じ地球の別の国の出来事にすら、普通はあまり実感を抱けない。別世界となればなおさらで、征服された世界の状況は、隼乃から聞いた言葉でしか光希は知らない。
 しかし、要するに別の国や文化で育った人間のようなものである。どこかの国には当たり前の文化でも、他所には通用しないといった話は普通に聞く。まして光希にとっては当たり前の食事が、怪魔次元では贅沢品という事情を考えるに、隼乃が生まれて初めてアイスを食べたとしても何らおかしくはないのだろう。
 それになかなか、美味しそうに食べていた顔は可愛らしかった。
「次はたい焼き行く?」
「鯛?」
「魚料理じゃなくてね」
 連れて行ったたい焼きの店では、カスタードかあんこかで時間をかけ、やっと買ったたい焼きをどこから食べるかでまた悩んでいた。
 クレープの種類に時間をかけた。パフェの種類に時間をかけた。
 何を選ぶにしてもじっくりと、真剣そのものの表情でメニューを見つめ続けた隼乃は、しだいに満ち足りた顔立ちを浮かべていた。
「……選べる。選べるとはいいものだ」
 しかし、ふと憂いを帯びた。
 思い出したように涙が滲み、いつ一筋の粒が流れ落ちるのかもわからない。
 光希も、ふと思う。
「私もね。こういう感じの日常より、もっと他にやりたいことを優先してきたけど、意外と悪くないもんだね」
「……」
 言葉は返って来ないが、表情だけは光希を向く。
 目で、頷いている。そんな気がした。
 そうか、少しは隼乃がわかってきた。好きで無言でいるのでなく、返す言葉を思いつくのが遅いのだろう。
 お喋り上手な人間は、そういう脳の回路に磨きがかかり、だから思いついたことをその場で何でも言えてしまう。光希自身もどちらかといえばお喋りな部類だが、話しかけても返事が遅い人間は、隼乃に限らず学校のクラスに必ず一人はいたりする。
「私ってこういう性格だから、まあ学校に行けば友達ぐらいいるよね。知らない人にも話しかけるし、何だってすぐに大きな声で聞いちゃうし。たまに休みがあったら、こういうまさに普通の日常みたいな過ごし方にも、もっと目を向けて見ようかな」
「それがいい。当たり前と化したものの価値は、きっかけがなければ見直すことができない」
 考えてから喋るため、答えが決まっていれば返しは早い。
「隼乃には、当たり前ではなかったんだよね」
「私には何もかも信じられない。全て何もかも、贅沢な高級品のように美味しいのに、それが一般人の金で手に入る。怪人達の独裁社会が、いったい人々から何を奪ったのか。私自身の体験だけではわからなかったことが、より多くわかってきた」
 隼乃のその言葉を考えるに、妙にゾッとするものがある。奪われ続けているせいで、初めから無いことが当たり前で、自分が何を奪われてしまっているのか、知りすらしない人間もいるのだろう。
「アイスクリームも、たいやきも、テェフェルが世界征服を達成したら、自由に食べられなくなるのかな」
「奪わせはしない。この一ノ瀬隼乃がある限り、怪人社会は必ず滅ぶ」
 隼乃は真っ直ぐに瞳を向け、より一層のこと真剣な表情で光希を見た。
「だから光希。私はもっと知りたい。この私のいた出身次元が、世界征服さえなければ本当はどんな風に発展していたのか。この世界を見ることで学んでみたい」
「だったら、私が教えてあげるよ。もう友達だもんね」
 握手を求め、光希は隼乃に手を差し出す。
 握りかけた隼乃だが、即座にその手を引っ込めていた。
「……友達?」
 真剣極まりなかった表情が、ものの一瞬にして戸惑いに染まっていた。そんな言葉を聞くなどまるで想定していなかったと言わんばかりに、困惑に首を振り、何かを恐れる表情で一歩後退までしていた。
「……そうでしょ? 一緒にアイスもたい焼きも食べたし」
 常識的に光希の胸によぎるのは、嫌なのだろうかということだった。仲良くなったと思っていたのは自分だけで、本当はロクに好かれてなどいない。こうして連れ出したのも、ただ世界見学になった以外は迷惑だったのだろうかと――それは違うらしい。
「……違う。仲間が欲しいわけじゃない。友達は、いらない」
 その隼乃の言葉は、自分に言い聞かせているようにしか聞こえなかった。
「どうして? 話してみなよ。力になるからさ」
「あなたでは力にならない! そんなことを軽々しく言うな。仲間もいらない。それぞれの世界の状態を、知るだけで十分なんだ!」
 自分の吐き出した言葉に隼乃は、ふと我に返って青ざめて、自分の言ってしまった一つ一つのことに対して後悔の色を浮かべて目を見開く。
 嫌われたのでも、迷惑だったわけでもない。別の何かが隼乃にある。
 しかし、もし本当に嫌われていようとも、これだけははっきりしなくてはならない。
「隼乃がどう思ったとしても、私はあなたに感謝しているし、救われた恩は忘れない。私にできることがあるなら、借りを返したいとも思う。あなたがどうであれ、恩人になった人に対する気持ちは決して変わらない」
 ほんの少し、ちょっとでもお礼をしようとすることさえ迷惑なら、もう何もすることはなくなるが、それで感謝の心が消えるわけではない。ありがとう、という、せめて気持ちだけでも抱いているのが、恩人への礼儀の一つだ。
「もし私が怪人と同じ醜い姿をしていてもか」
「当たり前だでしょ? 大事なのは心。もしも正義の怪人が存在したら、私はそれを怪人ではなく英雄と呼ぶ」
 今度こそ隼乃の表情が変わった。
 奇跡を信じられないかのような動揺で、だけど嬉しそうともいえる震えた顔で、一度は拒んだ握手を隼乃の方から求めてきて、光希はもちろん手を差し出す。
 指貫グローブを嵌めたお互いの手が握り合うとき、思いもよらぬ握力に光希は驚愕した。
「――いっ!」
 肉も骨も潰れるほどの指圧に驚いた。
「も、申し訳ない!」
 隼乃自身も驚いて、腕ごと引いた上に手を腰の後ろに隠してしまった。
 なんと言っていいのかわからない。
 そうか――。
 こうなって初めて光希は理解した。
 
 だから握手を嫌がったんだ。
 
 改造された肉体の持ち主だと、とっくに本人から聞いて知っていたはず。あまりにも普通に食べて飲んでとやっているから、こうなることを想像もしていなかった。
 少し、失敗してしまった。
「力、強いね」
 言葉が浮かばず、光希はそれだけ言った。
「改造人間、だから……」
 隼乃は答えた。
 そのとき――
 
「あら、光希さん?」
 
 そこには意外そうに目を丸めている黒井川百合子の姿があった。