第5話「シャチクモスキートのブラック企業!」part-A



 死体そのものは見慣れてしまった。
 十三歳の一ノ瀬隼乃が見上げるのは、社会への反逆を企てたために逮捕され、銃殺刑によって命を落とした男性が、十字架の磔で路上に晒されているものだった。
 腐敗臭を吸い込むだけで、まるで肺の中にも腐敗を移して広げてくるかのようで、近づきすぎればむせ返る。死体を嗅ぎつけたハエが群がるだけ群がって、羽音が煩くもある死体は、銃弾が衣服を貫いたのだろう穴と血の痕跡がそのままになっている。皮膚が変色を終えてしまって、棒でつつけば肉が泥のように崩れるにも違いない。
 ……平気だ。
 小さい頃から、こういうものを時折見てきた。
 グロテスクなものの実物がそこにあっても、別に気持ち悪くて吐くといったことはない。
 それよりも、自分もこれと同じ有様にされないかという恐怖の方が、死体そのものに対する感情よりも遥かに強い。
 悪いことをするとこうなるのだと、昔は盲目的に信じていたが、大きくなって知恵がつくほど、自分の生きる世界の恐ろしさが見えてきた。心の自由まで奪われて、絶えず怪人権力の顔色を伺いながら生きていなければならない社会構造に気づいてしまった。
 今となってはこの死体の男が本当に反逆罪なのかも疑わしい。
 実はそういう気持ちを抱いただけで、本当に計画を立てて実行しようとまではしていない。定期的に見せしめを用意して、社会に服従しない者はこうなるのだと、国民にお手本を見せるために殺されたのではないのだろうか。
 なんて、そんなことを声に出したら、もちろん隼乃も逮捕される。
 どんなに小さな罪で捕まっても、たった数日の懲役から死刑という幅広い範囲で判決が下されて、だから気持ちを抱いた罪で殺されてもおかしくない。
 名も知らぬ男と向き合って、ふとした拍子に隼乃は気づく。
 そういえば、もうここには誰もいない。
 死臭が漂うことの不快感から、自分もこうなるかもしれない恐怖から、この辺りを通ろうとしていた住民達は声もなく離れていき、今は隼乃だけがここにいた。あまりにも静かで、世界中に自分一人しか存在しなくなってしまったような、とても不思議な気持ちがした。
 今のうちなら――。
「ご冥福を」
 そう思って、隼乃は静かに両手を合わせた。もしもあの世が存在して、ただの祈りに意味でもあれば、などとは生きている者の勝手な願いではあるのだろうが、何となくそうせずにはいられなかった。
 その時だった。
 
「お嬢さん」
 
 急に後ろから、背中に声がかかってきて、隼乃が真っ先に抱くのは恐怖であった。
 ――見られてしまった。
 犯罪者に両手を合わせ、犯罪者の冥福を祈っていた。この独裁社会において明らかな犯罪行為を目撃され、自分もこれから同じ磔になるのではないかと本気で恐れた。
「なに、怖がることはないわ。むしろ安心したくらい」
 女の子にしては凛々しい声に、ゆっくりと恐る恐る振り向いた。
 そこにはギターを抱えた長身少女が、隼乃の顔を見るなり挨拶とばかりにピックを弾き、弦の振幅による音色を立てる。
 ――滝見零だ。
 クラスメイトで、実は前々から気になっていた。
 妖艶な美貌の持ち主は、肩まで伸ばした茶髪をカール気味にして、その毛の一本一本がどこかふんわりして見える。その髪に手を触れて、指を通してみたのなら、柔らかい髪の隙間をすんなりと通り抜けていけそうな、柔軟性が目に見える。
 頭脳優秀、スポーツ万能。
 おまけに美人とくれば、誰しもが注目するのは当然だが、隼乃が零を気にしていたのは、何もそんな理由ばかりじゃない。
 本当は自分と同じで、心のどこかにこの世界に対する不満を抱いているのではないかと、根拠はないが匂いや直感でそう感じていた。声をかけて確かめてみたいと思っていた。それを犯罪行為に仕立てられ、処罰を下されることが恐ろしくて、その勇気が一切出せなかった。
 その滝見零が目の前にいる。
 咄嗟に喋ろうと思った。
「あ、あの、ええっと……」
 何か言葉を出そうと思って、どんな話を切り出そうかの台詞が一切浮かばず、どうしようどうしようと、考えるほどに焦ってしまって、こうなると口下手な自分が忌まわしい。
「ううーん。チ、チ、チ、チ」
 舌打ちにも似て、けれど苛立ちでも何でもない、むしろ余裕をたっぷりと含めた口音でリズムを刻んで、指を左右に振り始めた。
「一ノ瀬隼乃。能力判定のテストでは将来を科学者と決定され、大人顔負けの頭脳を誇る。ただし、その頭脳はここいらじゃあ二番目ね」
 あまりにも悠然としていた。自分はあらゆる他者を上回っているのだから、誰よりも余裕があって当然だと言わんばかりの、いっそ傲慢すぎて清々しいほどの表情だった。
「……えっ、なら一番は」
 もう、何となくわかっていた。
 そう来るに違いない。
 その期待を一切裏切ることなく、零はやはり余裕の笑みを浮かべながら、その綺麗な指先で自分自身を指していた。
「そ、そうなんだ」
「あーらら、そこはもうちょっと対抗意識を燃やしてくれてもいいんじゃない? そこまで言うなら私と勝負してみせろ、とかね」
「いや、勝負と言われても……」
「じゃあ、こういうのはどうかしら?」
 まず何も無い手の平を見せてきた。
 まるで私は何も持っていませんと、そう証明することが目的のようにして、それからすぐに指をパチンと鳴らす。
「――えっ」
 隼乃は軽く驚いていた。
 そこには便箋に閉じられた一通の手紙が、人差し指と中指を立てた隙間に挟まれて、さも初めから存在していたように、隼乃の目の前に佇んでいた。
 それが立派な手品であり、ここはマジシャンとしての技量を褒めるべきなのだと、二秒も三秒も遅れて気づき、隼乃は軽く拍手した。
「どうもどうも、これはお嬢さんに書いたものでね。是非読んで欲しい。返事はいつでもいいのだけど、早ければ早いほど嬉しいわ」
「わかった」
 隼乃はさっそく開け始める。
「早っ! 今ここで?! さすがに早いわよ!」
「駄目か」
「あのねぇ、まあ駄目ではないけど。まあいいわ。じゃあ今ここで読んでちょうだい」
 便箋から取り出して、そこに書かれていた文面は、普通なら意味不明の文字列としか受け取れない、記号や象形文字やアルファベットの羅列であった。これを一目見て意味のある文章だと思える人間がどれほどいるか。
 隼乃には、隼乃であれば、それが文章に見えた――暗号文だ。
『あなたは怪人社会に疑問を抱く人間ですか?』
 それを解読さえすれば、非常に完結な質問文となってくる。
「ペン、紙」
 何か書くものはあるかと、隼乃は読んですぐその場で尋ねた。
「うぇ? まさか今ここで返事書くのかしら? 早過ぎない?」
「駄目か」
「駄目ではないけど、しょうがないわね。貸してあげるわ」
 むすっとして、はっきりとした感情の浮かんでこない顔つきからは、傍からすればとてもわかりにくいことなのだが、暗号文を見た瞬間から隼乃は浮かれていた。
 世界中で自分一人が狂っているのではないかと、ずっとそう思っていたのだ。
 管理社会の構造に縛られて、子供向けの洗脳教育番組や数々の学校指導など、怪人優位の社会に疑問を抱かないようにと育てられ、それなのに教育側の意図を外れる人間は、それはそれである意味おかしい。
 きっと、疑問すら抱くことなく、自分が鎖に縛られて、絶えず自由を奪われ続けていると、自覚すらしない方が自然なのではないかと。
 狂っていることの方が普通で、狂っていないことの方が異常。
 だから、自分は狂っているのではないかと考えもした。
 自分と他人では、同じ人間同士であってもあまりにも種族が違って、まるで別の生き物同士であるように、本当の意味では仲良くなれないとも感じていた。
 だが、こうして同じ疑問の持ち主がコンタクトを図ってきたのだ。
 前から気になる男の子がいて、自分から声をかけようなんてできなくて、けれどなんと向こうの方から声をかけてもらえたような――などと例えるのも大げさだが、もうそのくらいには嬉しくて、隼乃は非常に活き活きとしながら、今この場で即興の暗号文を書き始めていた。
 床に紙を敷き、しゃがみ込み、子供のようにはしゃぎながら、楽しそうにペンを走らせた。
「出来た」
 と、手渡して、その場で読ませる。
『はい。その通りです』
 質問に対するストレートな返答を書き込んでいた。
「ほほーう? 悪くない構成ね。しかし、やっぱりあなたは二番目ね」
「一番は?」
「やっぱり、私よ」
 自信満々に己を指す。
 もうこの瞬間から、隼乃は零のことが大好きになっていた。
 
     ††
 
 学校での生活があり、部活動があり、父親が仕事に行っているあいだに母親が家事をやる。
 ごく普通の生活は存在した。
 ただし、町中のどこにでも監視カメラはあり、社会によって主婦と定められた女性が、社会によって決定された夫と暮らし、子供まで生んでいる。家族の誰か一人でも怪人社会の機嫌を損ねることをすれば、たちまち周囲の人間までもが罰則を受けかねない。
 隼乃の母親は望まぬ男性の相手をするために出かけていた。
 怪人社会から言い渡され、拒めば隼乃も罰則対象と告げられて、しかし母親は暗い顔など一度も浮かべてはいなかった。
「怪人様のお役に立てるのよ? 素晴らしいことじゃない」
 嫌ではないのかと尋ねたら、最高の喜びについて語る顔でそう言った。
「隼乃にはまだ早いかしらね。だけど、いつかお役に立てる日が来るのよ?」
 戦慄した。何の疑いも抱かず、嬉々として尽くす無邪気な顔が、ずっと一緒に暮らした母親だろうに、ここまで恐ろしく感じるとは想像もしなかった。
 ――この世界はおかしい。
 ――完全にどうかしている。
 だが、多くの人々には疑問などないのであり、世界の方がおかしいと決め付けられる自分こそ、やはりおかしいといえばおかしいのだろう。そうなるように育てられ、怪人様に奉仕することの喜びについても教えられ、母親と同じになってしまう方が普通の環境で、環境通りの育ち方には染まっていない。
 そう育つはずの環境でそう育たない。
「零。自分達がおかしいとは考えたことはあるか」
 あれから仲良くなって、しょっちゅう暗号文でやり取りを交わすようになってから、零とは自然と一緒に過ごす時間が増えた。
 特に見晴らしの良い崖で、海が岸壁にぶつかる音を聴いていると話しやすい。
 一般人に聞かれて密告される恐れも、市街地の盗聴システムで日常会話の内容を監視される恐れもない場所だからだ。
「私はこう思うわ。むしろ、どんどんおかしくなりたい。どんな人間だって決まった色に染めてしまう環境で、そうはならない私でいたい。大勢の人間と横並びじゃあ、日本で十番以内にもなれはしないわ」
「日本一マニアめ」
「あーらら、向上心が強いと言って欲しいわね。ちなみにマジシャンとしても日本一よ」
 零は指をパチンと鳴らしただけで、その手に色んなものを出してくる。一輪の花から白い鳩まで何でもかんでも、実は何かの魔法で本当にどこか遠くから取り寄せているのではないかと想像したくなるほどに。
「日本一の女子が将来なる職業は?」
「私には怪人社会の仲間入りの資格があるそうよ?」
「本当か」
 人間が怪人社会の地位を得るのは本当にレアケースで、滅多にないどころの話ではない。実は国民の不満を和らげるためだけの、架空の制度ではないかと疑ったくらいである。
「ただし、脳手術で洗脳チップが入る可能性が高いのよ。私のような日本一優秀な女子が、万が一にも怪人の力を『善用』したら、いくらでも社会を変えてしまうでしょうからね」
「ふむ」
「とはいえ人間側に置いたまま、優秀すぎる人間に反逆計画を立てられても恐ろしい。いっそのこと自分達の側に取り込んでしまおうなんて腹でしょうね。まあ、それは想像だけど」
「私は科学者らしい」
「将来の研究成果はもっぱら怪人の役に立てられていくのでしょうね」
「まったくだ」
 それでも、隼乃は幸せだった。
 こうして気持ちを吐き出して、お互いに同じものを抱えているのだと、確かめ合っているだけでも心地がいい。
 零と一緒にいることが楽しくて、とても幸せだった。
「ねえ隼乃。今年は1968年よね」
「うん」
「この世界に怪人が現れる前までの技術レベルを知ってるかしら? 携帯電話でさえ存在しなかったそうよ。なのに今はインターネットまで発達している。まるで遙か未来の技術でも持ち込んで、通常ありえない速度で発展させてしまったように思えてならないわ」
「疑問なら私にもある。世界征服を達成して、この怪人社会を作り上げ、だからといって何も世界人口の約八割に奴隷番号を振るなどという極端な制度が必要だろうか」
「ええ、その通りよ。そんなことをしなくても、権力者にとって都合のいい仕組みは昔から存在していた。怪人社会は極端すぎる。死刑で殺した死体を町に飾って、まるで積極的に怖がってもらおうとしているみたい」
「怪人は一体、どうやって現れたのだろうか。それとも、どこから来たのだろうか」
「別世界。だったりして」
「まさか」
「ええ。まさか、ね」
 会話はそこで途切れた。
 少しばかり話すことがなくなって、零が静かにしていては、隼乃の方から出せる話題はあまりない。
 かといって、無言でいることの気まずさは何もなかった。
 静寂の中で視線を絡ませ合う隼乃は、零がこうして隣にいることの空気感に浸っていて、やがてそーっと手を伸ばす。肘の近くの袖を指でつまんで、指先に捉えた衣服の感触をなんとなく弄ぶ。
「一人っ子?」
 零に訊かれて、隼乃は頷く。
「私もそうなの。姉か妹か欲しいと思ったことはないかしら」
「特には」
「そう? 私はあるわ。今個々に妹でもいたら、なんてね」
 そう言って見つめられ、隼乃はもっと零と一緒にいたくなった。零がそこに立っていることで生まれる空気が、その体温までもが大好きで、隼乃はそーっと距離を詰め、自分でもどうしてそうしてしまったのかわからないうちに、本当に無意識にしがみついてしまっていた。
 少しだけ遠慮の篭った軽い力で、抱きつこうと重心をよりかけて、零はそれを正面から受け止め抱き返す。
「甘えん坊さんね」
 零の指が髪をかきあげ、頭皮をこすってくるのが心地よかった。
 ずっと、ずっと一緒にいたいと思った。
 滝見零――。
 お姉ちゃん……。