第5話「シャチクモスキートのブラック企業!」part-B



 夜道をバイクで走っていた。  その日の南条光希にはヒーローショーで怪人役をやる予定が入っており、学校から県外のデパートまで直行して、夕方のプログラムをこなした頃には、シャツから搾り出してしまえるほどの汗をかき、大量の水分を補給してから帰り支度を整える。  帰ったらご飯を食べて、すぐに寝て、朝になったら早起きしてと、明日の生活スケジュールについて考えながら、ヘッドライトで照らした闇を突き進む。  そろそろ県内に戻る頃か。  交通量の少ない静かな道に差し掛かり、駅周辺にあるような喧騒も、ファッションビルやコンビニやカラオケ施設の数々が集まる町明かりも、どこか遠くの世界に感じられる。自分自身の跨るバイクエンジンの音だけが、ヘルメットの内側にある光希の耳を満たしていた。  どうせ誰もいやしない。  ここまで通行人を見かけることのない道で、そうそう事故の心配はないのだろうが、油断をした時に限って人が飛び出しても困る。法廷速度を守りつつ、十字路のたびに速度を落として左右確認に徹する光希は、だから急なパニックに飲まれることなく対応できた。   「キャァァァアアア!」    と、悲鳴が聞こえて――。  轢かれる可能性などまるで構いもしていない――いや、むしろ構っている余裕などなかったように、狼狽しきった一人の少女が猛烈な勢いで、喰らいつかんばかりの突進で駆け寄って、必死の形相で助けを求めてきたのだ。 「助けて下さい! 助けて! 助けて!」  中学生であろうか。  そこにいる人であれば誰であれ、とにかく助けを求めずにはいられない様子の少女の顔は、何か尋常でない恐怖に囚われて見えた。  そう、例えば本物の怪人でも見たような……。 「君、どうしたの」 「――たす――たすけ――殺される! 殺されるの!」  パニックで詳しい事情を聞くどころではない。  光希はもう既に反応していた。 「大丈夫だ。さあ下がって!」  この小さな少女を怯えさせ、追って来ている者達の迫り来る気配を感じ取り、直ちにバイクを降りてヘルメットも脱ぎ捨てる。腕で庇うかのように女の子を後ろに下げ、正面から現れる彼らと対峙した。   「テェフェルの改造人間!」 「その名はシャチクモスキート!」    闇の中からヘッドライトの光が及ぶ範囲へと、一歩ずつ迫って来て、やがて照らし出される怪人の姿は蚊であった。  まるで頭蓋骨にある眼球部の穴を大きく広げたように、複眼が顔の面積の半分以上を占め、二本の触覚が左右に分かれていく形で生えている。吸血に使うのであろう針があり、背中には二枚の翅があり、実際の蚊の特徴をよく押さえた造形は、着ぐるみであれは一度は着てみたいと思うところだろう。  目の前に立つ存在の恐ろしさは、通常の生物にはない新機能を持ち、今までの怪人もツタや鞭を使った攻撃や飛行能力を発揮してきた。  ではこのシャチクモスキートの能力は何か。 「南条光希! 貴様を社畜にしてやる!」 「何ッ!?」  口から伸びるべき吸血針が、腕からもにょきりと伸びて、拳を当てるというよりも、鋭利な先端を突き刺すためのパンチを放ってきた。  だが、突きというのは攻撃範囲でいえば面積が点に近い。  一発、二発、三発――。  そのことごとくは上半身を振り子のごとく左右に振り回す要領で、ステップによる微調整も行いながらかわしていく。  蚊といえばウィルスの媒介となる危険性について一度は聞く。そして、社畜にしてやると言い出す言葉を考えると、もしやそれこそがシャチクモスキートの特徴なのか。  次の突きを見切った光希は、そこで一瞬姿勢を低め、相手の攻撃を頭上すれすれに通してやるかのように動きを取る。下をくぐっていく形で踏み込んで、人間なら確実に急所となる鳩尾に一撃を叩き込む。 「トゥア!」  指貫グローブを嵌めた拳は、確かにシャチクモスキートの腹部に直撃した。  内臓に負荷を受け、大ダメージでうずくまるはずだ――もちろん、まともな人間なら。  それがシャチクモスキートは痛みを感じた様子も見せない。 「変身無し、改造人間でもない貴様が戦っても無駄だ!」  その時だった。  プゥーン、という蚊の羽音。  眠ろうとした夜に聞こえて来て、鬱陶しくて寝付けない経験が誰しもにあるのと同じ、あの小うるさい羽音が耳元を縦横無尽に飛び回る。  ――一匹だけではない。    プゥーン、プゥーン、プゥーン――。    と、何匹も何匹も――。  何匹も何匹も何匹も、何十匹も何百匹も、うじゃうじゃと視界を染めて、見える景色の全てに砂嵐をかけて見えるほど、おびただしい数の蚊が飛び回り、おぞましいほどの羽音が耳の奥まで埋め尽くす。  嫌すぎる。  ただの不快感だけで頭がどうにかなりそうだ。   「それまでだ!」    この声は隼乃――いや、シルバーXだ。  どこからか声がするなり、まもなく後ろから追いついてきたように、バイクエンジンの音を鳴らしたエックストライカーがそこに停まって、駆け下りたシルバーXはシャチクモスキートと拳を交える。  たちまち格闘術のやり取りが始まった。  手早い拳の乱打に応じて、シャチクモスキートも手早い受けと回避のボディーワークでせわしなく動き続けて、常人にはただのスピードに溢れた打ち合いとしか見えないだろう。  武術経験に溢れる光希だから、あらゆる拳速に目の慣れた動体視力の持ち主だから、そこにある駆け引きを読み取ることが出来ていた。  どこかを打てば、相手は受け技による防御のために腕を使う。自分の思った場所へと腕を出させて、空いたスペースを狙い打とうとするやり取りが、シャチクモスキートにもそんなことはわかっている。この数秒間で幾度となく、絶えることなく常に駆け引きは繰り返され、両者は少しでも相手の狙いを崩そうと苦心していた。  しかし、シルバーXが上手らしい。  シャチクモスキートは一歩下がって、二歩下がって、追い詰められる形でだんだんと一歩ずつ後退を始めている。 「トゥ! トウ! トォウ!」  下段蹴り、中段突き、上段回し蹴り――最初の下段蹴りで前に出した右足を、そのまま踏み込みのために繋げてパンチを放ち、もう一度踏み込んだ足を軸として身体回転。遠心力をかけたキックを打つ。  いずれも受け払いで捌きこそしてしまうが、腕を盾とした受け方では衝撃が蓄積する。シルバーXの狙いはそうやって、防げば防ぐほど腕にダメージを与えることだ。やがて腕を消耗しきるとき、パワーで一気に攻め落とすつもりに違いない。  狙い通りにシャチクモスキートの受けのキレは鈍くなり、とうとう受け払いをやり損ね、まともなパンチを、まともなキックを一発ずつ浴びていく。  このままシルバーXが押し切って終わりかと、てっきりそう思えた時だった。 「己ェ! シルバーX!」  シャチクモスキートの翅が動いた。  二枚の大きな翅がプゥーンと羽ばたき、その瞬間に肌を擦り抜いていく強風で光希は悟る。  なんてテクニックだ。  人間同士の格闘術には存在しない。怪人という特殊身体構造だから出来る技。風圧を起こして相手の身体を押し返し、重心移動の阻害によって打撃の威力を落とすなど、そんな技術の存在をその目で初めて目撃するまで想像もしなかった。  風圧技法によってパンチのキレが鈍った結果、次の一瞬ではシルバーXの肩口にに腕からの針が刺さっていた。 「――ぐっ!」  即座に飛び退き、刺さった状態から逃れるも、針の太さによって開けられた皮膚の穴から、赤い血の色が白銀のコスチュームに広がっていく。 「どうだシルバーX。計画的に裏切る予定でいたとはいえ、元はテェフェルの一員だった。その貴様に社畜根性を与えれば、悪のために働くようになるはずだ」 「逆だ! 人間の自由のためにも、より一層働いてくれる!」 「知れたこと! どちらにせよシルバーX! 貴様はオーバーワークで倒れるのだ!」 「トォォウ!」  知ったことかとばかりに飛び掛り、大胆なキックを浴びせると、そこでシャチクモスキートは弾けて消えた。  いや、正確にはまるで弾けたように見えた。  あたかも大量の蚊を集め、一匹ずつ積み上げてようやく一人の怪人を形成していたかのように、肉体が丸ごと霧散じみて分離した。羽音だけで鼓膜がどうにかなりそうなほど、途方もない数によって成された蚊の軍勢は、意志を持つ雲の固まりであるように、こぞって遠くへ逃げていき、ヘッドライトも外灯の明かりも届かない闇に紛れて、すぐに気配は消えていた。 「戦闘力の高い怪人以外は私と戦っても勝ち目がない。だから既にテェフェルでは、特別な命令が出た場合を除き、仮面プリンセスとの戦闘行為は可能な限り避けるようにと通達が出されている」 「逃がしさえしなければ、確実に倒せるってことか」 「そして、蚊のサンプルを取った」  その手には試験管が、何匹もの蚊を閉じ込めた状態で握られていた。 「いつの間に……」 「自然界には存在しない。いわばテェフェル産の蚊だ。細菌を運ばせて、人々に感染させるつもりだろうが、分析さえ出来れば解毒剤は何とかなる。その研究設備が欲しい」 「そりゃ城南大学行くしかないね。それは私がどうにか頼んでみるよ」 「城南大学……?」  あとは被害者の女の子だ。  シャチクモスキートはどうしてこの子を追いかけたのか。今の今まで怯えたまま蹲り、急なシルバーXの登場にも困惑している最中の肩を叩いて、光希はそっと優しく声をかけた。 「もう大丈夫だよ。何があったのか話してくれない?」 「ありがとうございます。私、その……」  話そうとして、すぐに女の子は話を躊躇う。  本当に話してもいいのだろうか、話したところでどうなるのか。誰かに相談したいけど、言うに言えないような不安そうな眼差しが浮かんでいた。 「大丈夫。どんな話でも私達は信じるから」  怪人に襲われたことを口走れば、必ず馬鹿馬鹿しく聞こえてしまう。  それ自体がある意味では、被害者が泣き寝入りせざるを得ないシステムそのものだ。        ††    中村美智子は中学一年生の女の子だ。  年齢は十二歳。  歳の離れた姉がいて、元々母子家庭だったが母親は病気で亡くなっている。姉妹で二人暮らしとなってから、残された貯蓄と就職二年目になる姉の収入でどうにかやっているらしい。  姉の名前はりつ子――つい最近までは、普通の優しい姉だった。  任された家事をこなして晩御飯の用意をしていると、いつも美味しそうにしてくれて、休みの日には宿題も見てくれる。優しい姉を少しでも支えるため、掃除も洗濯も頑張っていた美智子なのだが、ある日を境にりつ子の帰りが遅くなり始めた。  いつも定時に帰って来るから、一緒にご飯を食べるのに、その日はメールで遅くなると連絡が入っていた。  たまたまだと思ったが、次の日もまた次の日も、遅くなる連絡が入ってくる。  家に帰って来る時間は十時を過ぎ、十一時を過ぎ、とうとう深夜に帰って来ることが当たり前になるばかりか、しかも早朝六時には家を出ている。休日にまで出勤することが増え、姉の過労は目に見えていた。  本当に仕事が忙しいらしい。  それとも、姉が働いているのはブラック企業というやつなのだろうか。  心配するだけ心配して、しかし中学生の美智子にそれ以上の何が出来るかといったら、ただただ思いやる以外には何も出来ない。せめて早朝出勤に間に合うように弁当を作ってやり、帰りが遅くなっても夕食にラップをかけておく。  それくらいだった。  それくらいしかしなかったし、出来なかったから、いざそうなって責任を感じていた。  ――ついに過労で倒れたのだ。  出勤前に玄関で倒れ込み、もう明らかに疲労が顔に浮き出ていて、美智子は大慌てで救急車を呼びつけた。  病院で出た診断結果はやはり過労で、安静のためにしばらく働かない方がよいと医者は言う。  だが、話がここで済んでいたなら、美智子は何もあんな行動は取らなかっただろう。人がこんなになるまで働かせるだなんて、なんて酷い会社だと、憤りを胸に抱えて他の仕事では駄目なのかと、そんな話を持ちかけるくらいだっただろう。  しかし、姉は狂っていた。 「駄目よ! 休むなんて!」  狂ったようにベッドから飛び起きて、今からでも出勤しようとし始めたのだ。  美智子も看護師も当然止める。 「駄目よ駄目よ駄目よ! 働かないと! 働かないと!」  すると、姉は抵抗を激しくして、まるで強迫観念にでもかられたように、出勤しなければ死ぬかのように、会社に行こうとすることばかりを大声で口走る。姉を取り押さえるために何人もの医者や看護師が駆り出され、かなりの騒ぎにまで発展したのだ。  ――おかしい。  ――明らかにおかしい。  美智子は一つの疑惑を抱き始めた。    ――何か秘密があるんじゃないのか?    人を狂わせてしまうほど、世にも恐ろしい社員教育が存在して、そのせいで姉は洗脳でもされた勢いで仕事への執着心を剥き出した。  ならば秘密を探らなければならない。  姉をこんなにしたものは何か、その正体をどうしても知りたい。  かなりの勇気がいる行動で、やっぱりやめておこうと何度思ったか知れないが、それでも美智子は姉の会社を訪れてみる決意をした。  電話をかけて、妹であることを明かして、見学の申し出を……。  意外にも許可が出て、社内案内を受けた美智子が見たものは、想像していたような恐怖の職場環境などではなく、穏やかな上司が和やかな顔で部下の面倒を見ているような、むしろアットホームな部類の会社といえた。  スーツを着込んだ女子社員が、男性社員が、パソコン画面を睨みながら、一生懸命何かの処理作業をやっている。書類を片手に部下が上司に仕事上の報告を行っている。ドラマを視聴する時にも見る光景と大きな違いはなかったのだ。  いや、おかしい。絶対に何かあるはずだ。  現に姉はあんなになって、帰り時間だっていつもいつも遅かった。  美智子はほとんど、自分の思い込みを信じてやまない状態にいたかもしれないが、いずれにせよ案内してくれる人の目を離れ、独断で社内を徘徊した。どこかに隠された秘密を探るために奔走して、社内のあらゆる場所を覗きまわった。  そして、見たのだ。  怪人を……。   「いいか。この会社は既にテェフェルの支配下にある。会社の上げた利益をテェフェルが吸い上げていくのだ。そのためには社員の給料をいくらカットしても構わん」    ドアをそーっと開いた隙間から、美智子が目撃した光景は、怪人が社員に命じて従わせているものだった。  ……信じられなかった。  これは何かの間違いというか、実はいい歳をした大人がごっこ遊びをしているんじゃないかと、本気でそう思ったくらいである。   「過労死上等! テェフェル傘下の企業が増えれば増えるほど、日本国民はだんだん過労で倒れていき、我らの侵略行動に対する抵抗能力も失うのだ。たとえ過労死の遺族が訴えて、裁判に発展しようと、その責任を負うのは企業であってテェフェルではない。我々は思う存分に人間どもを過労死させて構わないのだ!」    口走っている内容は、どう考えても姉の状態と関連している。  信じられないけれど、信じるしかない。  だけど、もしあの怪人が本物で、決して着ぐるみでも何でもないとして、一体こんな話を誰にすればいいのだろう。  警察、弁護士――無理だ。  誰にも相談できはしない。  どうしよう、こんなもの、本当にどうすれば……。  その時だった。   「この俺の姿を見たな!」    本当にいきなり、突如として美智子の気配に気づいた怪人が、ドアの向こうにいた自分のことを指して来る。  すぐに美智子は逃げ出した。  あとは無我夢中で走り続けて、偶然にも南条光希と出会わなければ、シルバーXが来なかったら、一体どうなっていたのかわからない。        ††    父親である南条辰巳にとって、この日この時間に娘と電話をする約束が楽しみだった。日頃交わせるのはメールくらいで、帰国はもちろん、落ち着いてゆっくり声を聞くことのできる機会は限られる。  久々に娘の声を聞けるのだ。  ワクワクしながら国際電話の番号にかけ、何コールのうちかに光希が出るまで、今回は何を話そうかと想像を膨らませ、もう一秒だって待ちきれなくなっていく。  辰巳は1972年放送の『電刃忍者霧雨』で有名になってから、妖艶かつ女性的な美貌で注目を浴び、その後は『鉄刃タイガーゼロ』という特撮番組にも出演したのち、あらゆるドラマに引っ張りだことなる。  生まれた娘が大きくなり、一人にしても心配がないくらいになってから、今では世界のアクション映画で活躍中だ。  カンフー、ファンタジー。それにサムライが活躍する作品など、とにかく動き回る機会のある撮影に呼ばれ、各地で大暴れというわけだ。  忙しい分だけ、娘に構う時間がない。  それだけに限られた時間が余計に楽しみで、通話が繋がった途端に歓喜した。 『よっ、父さん』  来た! 光希だ! 「よ! 光希!」  娘の声に大喜びで、満面の笑顔で自分の近況を語り始める辰巳は、電話の向こうで相槌を打つ細かい気配の一つにかけても噛み締める。  ああ、光希だ。  ちっとも変わらない様子で向こうにいる。顔が見えなくとも、今どんな顔で話を聞いてくれているのか、まるで目に浮かんでくるかのようだ。  おっと、自分の話ばかりではいけない。  光希の話も聞くために、そちらの様子はどうだと振り、娘からは何を聞けるのかと楽しみに待ち構える。 『こっちは本物の改造人間を拾ったよ』 「は?」 『けど変身は強化服を着るタイプでさ。肉体は変化しないの』 「は?」 『悪の組織まで出てきて大変だよ』 「は?」  意味がわからなかった。  確かに光希は明るい子で、周りの人にも積極的に絡んでいく。冗談の一つも言ったっておかしくない娘だが、妙に本気を感じてしまって困惑した。 『まあ、そこら辺は冗談として、最近面白い子と知り合ったのは本当なんだ』 「おおう? どんな子だ」 『無国籍で住所無し。行くアテのない十六歳の女の子』 「いや意味がわからんぞ」 『わからんだろうけど、残念なことにこれは冗談じゃない。マジのマジ』 「いやマジで?」 『マジ』 「今すぐ元の場所に戻して来なさい」 『子猫じゃないから出来ません』  きっぱりと言い切られてしまった辰巳は、わけもわからず頭を抱えた。 「実は男じゃないよな。女の子だよな」  さすがに同棲は許可できない。光希に限ってそれだけはないと信じたいが、もしも自分のいないあいだに男子を住まわせていたのなら、世界に対する絶望でも抱かざるを得ない。 『何なら声でも聞かせたいけど、今は取り込み中でさ』 「わ、わかった。信じるからな? 父さん信じるからな?」  そうだ。きっと大丈夫に違いない。信じよう。信じるのだ。 『あー、ところで私の母さんさ。いたんだよね? お腹の中に』 「ああ、そうだな」 『いたかもしれないんだよね。弟か妹が』  ……そうだ。  光希が家に帰っても、お帰りなさいと言ってくれる人はいない。いつも家は真っ暗で、自分が帰って初めて明かりが点く毎日だ。  日本にいた頃を思い出す。  光希は仲の良さそうな姉妹に羨ましそうな視線を向けていたことがあったじゃないか。 『一ノ瀬隼乃っていうんだけど、私には想像もつかない世界でずっと暮らしていた。それでたぶんだけど、隼乃は自分と同じ境遇の誰かが増えることを望んでいない』  本当にどんな子と出会ったというのだろう。  だが、きっとあれだ。 「その子なんだな」 『うん? 何が』 「いいや、何でもない。近いうちに日本に戻るよ」 『本当?』 「ああ、ようやく都合がつきそうだ。俺もその一ノ瀬隼乃って子に合わせてくれよ」 『まあいいけど、絶対驚くよ? やっぱり改造人間だから』 「は?」 『じゃーねー』 「あ! おい!」  切られてしまった。  改造人間? と、思うくらいの運動神経の持ち主か、そのあたりか。  まあ、帰国してみればわかるだろう。        ††    父親との電話を終えた南条光希は、ベランダから室内へ戻る。ちょうど隼乃は美智子からの事情を気か終わり、今回の怪人の企みについて把握したらしい。 「シャチクモスキートの狙いは日本各地の企業を征服して、利益の吸収と同時に過労で国民を弱体化することだ。働く喜びをテェフェルの都合に合わせて植え付けて、世界征服を達成したその後まで想定して、怪人社会における奴隷育成を兼ねている」  長時間労働。そんな社会問題がテェフェルの仕業になろうというのか。  怪人が関わる以上、それは一概に人間社会の問題とばかりは言い切れない。それ自体はこの日本社会に初めからあった問題なのかもしれないが、怪人によっての悪化となれば、本来ありえないレベルとなってしまう。 「蚊には何かなかった?」 「奴の怪人構造や能力を考えると、やはり細菌を運ばせて、精神的な作用を引き起こしているのは間違いない。物質さえ調べれば、私なら抗体くらい作れるはずだ」 「わかった。知り合いのツテがあるから、研究室は明日にでも借りられるようにしておくよ」  それよりも、今は美智子が心配だ。  怪人に追いかけられ、散々な恐怖を味わって、危うくのところを救ったおかげか、家まで送るという申し出はすんなり受け入れられた。  きっともう怖くて怖くて、心強い誰かが傍にいないと、眠れもしないのだろう。  藁にも縋る気持ちというべきか、初めて出会った相手に縋らざるを得ないほど、美智子は恐怖に追い詰められてしまっている。  それに白馬の王子とでも言うべきか、助けに入った事実は強い。  同じ女で、だけど強くて背も高い。何なら男装さえすれば、イケメンヒーローの役もこなせるルックスは、十二歳の乙女をクラつかせるには十分すぎた。  一人は危ない、また襲われたら守ってあげる。  と、家まで送って到着後、そこでさらに踏み込んだ申し出をした光希は、だいぶすんなりとアパートの一室に上げてもらった。同時に隼乃も招き入れ、詳しい話を聞き出すまでに至ったのだ。 「私、あんなものがいるなんて全然知らなくて……」 「うん。わかるよ。美智子ちゃん」  光希は美智子の頭を撫でて抱き寄せる。美智子の方からも身を寄せて、すっかり光希に身を任せていた。 「お姉ちゃんもあの怪人のせいで」 「そうだね。絶対に許せない。美智子ちゃんのお姉ちゃんは私達で元に戻してあげるからね」 「ありがとうございます。本当に、本当に……」  ……震えていた。  もう見てなんていられない。  ここまで怯えきっている美智子は、きっと今夜は悪夢でも見かねない。眠れるかどうかも怪しいくらいだ。その腕の中で涙して震えている。本物の被害者の存在に光希の心も震えていた。  許せない。許すまじテェフェル。