第5話「シャチクモスキートのブラック企業!」part-C



 そして、一ノ瀬隼乃は壁にギターを立てかけてあるのに目を留めた。
「ギターを弾くのか」
 光希の腕で震える美智子へと、隼乃はそっと問いかけた。
「はい……。お姉ちゃんが高校の頃に軽楽部だったから、それで私も興味を持って、教えてもらって……」
 白いギターの存在。
 ちょうど滝見零が持っていたギターとよく似ていて、そのせいか隼乃の脳裏には、十三歳当時の思い出が蘇る。零はいつでもギターを大切に持ち歩き、二人になるとちょっとしたメロディーを奏でて聞かせてくれた。
 いつしか尋ねてみたことがある。
「大事なものなのか」
 ――と。
 すると、零はどこか悲しげな表情を浮かべていた。
「一人っ子と言ったけどね。本当はちゃんと妹がいたのよ?」
「本当は?」
「どこかで怪人の悪口を言ったのが、知らないうちにバレていたらしい」
「……そうか」
 その言葉だけで、末路を察するには十分だった。
 たかが悪口も犯罪として扱われ、軽犯罪であっても数日の懲役から死刑まで、あまりにも幅広い範囲内で処罰が決まる。怪人社会にとって都合が悪ければ、あるいは見せしめの効果が高いと判断されれば……。
「元々は父さんが手に入れたギターだったけど、妹が興味を持ってから、これは妹のものだった。そして、もう持ち主はいなくなってしまった。だから私が持ってるの」
 そこまで聞いてしまった時点で、両親はどんな人かと尋ねる気持ちは失せていた。今でも無事でいるかもしれないが、そうでない可能性があると思うと、零の傷口に触れかねない気がして恐ろしかったのだ。
「私には父さんがいない。本当はいるらしいが、どこにいるのか、わからない」
 果たしていつか会えるのか。あるいは本当にどこにもいなくなっているのか。それさえ知らずにいた隼乃は、小さい頃から父親がいないことこそ当たり前で、会ってみたいかと聞かれてもわからない。
 明確に興味を抱く対象は『自由』であった。
 反社会性の思想がバレれば、たとえ懲役や罰金がなくとも再教育の施設に送られる。
 心の中身が知られただけでそうなる生活は、決して誰にも本性を曝け出すことが出来ず、いつだって鎖の重みを感じていた。がっしりと肉の奥まで食い込んで、痛いくらいに締め付けて来るような、心の苦痛をよくよく感じることが多かった。
 いっそ好き放題に出来たなら、それはどれほど快感だろう。
 だから零のギターにも興味があった。
 音楽なんていう行為は、もしも反社会的なメッセージ性があると決めつけられたら、いつどこで犯罪者にされるかわからない。誰からもバレずにいるか、黙認されるか、それとも政府が公式に発表している楽譜で安全に楽しむか。
 娯楽や創作活動自体、マニュアルに沿わなければ犯罪扱いされやすい。反社会思想の持ち主同士が、秘密裏に暗号メッセージのやり取りをするのを防止できるからではないかと、隼乃はそう思っている――例えばただの日記に見せかけた暗号文を自分達なら作れるから。
 だからこそだった。
 もしもギターを弾けば、そのあいだは鎖を投げ捨てていられる気がした。
「弾いてみたいんでしょ」
 急に言われて、隼乃はその場でうつむいた。恐る恐るの上目遣いでギターに視線を向けてみて、やっぱり照れくさい気がして改めてうつむいた。
「え、いやその……」
 どうしても遠慮してしまった。
 それは大事な形見ではないのだろうか。軽々しく触ってはいけないものに思えて、弾いてみたい気持ちはどこか引っ込みかけていた。
 それを引っ張り出すように、零はギターを差し出してきたのだ。
「ほら、教えてあげるから」
「しかし、それは……」
「同じ似た者同士じゃない。遠慮しなくても大丈夫よ」
 半ば押し付けられたギターを受け取ると、絶対に壊してはいけない割れ物を扱うようで緊張した。慎重に慎重に扱って、本当に恐る恐るといった気持ちで、弦を弾いて試しに音を出してみたのが、隼乃にとってのギター初体験だったのだ。
 やたらと壊さないように気を使って、そんな隼乃の様子が零は可愛いと、零は笑いながらからかってきたので、あの時はほんの少しだけ機嫌を損ねたものだったか。
「あーらら、なによその拗ねた顔は」
「……うるさい」
「もーう。しょうがない子ねぇ?」
「いいから教えるんだ」
 たまに零からギターを借りて、弾いてみるようになったのは、全てあの時からだ。基礎から楽譜の読み方まで、それに教わった曲をもっと上手に弾くコツまで、ギターに関する全てが零からだった。
 だからもう、たまらなかった。
 美智子のギターを手に取るなり、懐かしさに想いが溢れて、少しでもギターに触れた他の細かい思い出までもが蘇り、三年も前になる古い記憶が次から次へと鮮度を取り戻す。
 ……会いたい。
 零に、零に会いたい。
 美智子のギターを弾き始めてから、隼乃の胸は滝見零と過ごした時間で埋め尽くされた。何でもかんでも日本一に成りたがる向上心の塊で、今日は出来なかったことを明日までには身につける。テストは満点を取りたがり、九十九点では納得しない。
 零から教わったメロディーを奏でるうち、隼乃の胸から腕の中へと、指先から弦に伝って感情が流れていき、いつしか思い出ばかりを弦の振幅に乗せていた。
 あの頃に戻れるのなら戻りたい。
 滝見零に会いたい。
 もし今でも無事でいるなら、せめて零の顔をもう一度見るだけでも……。
「あっ……」
 初めて気づいた。
 いつの間にか涙目になっていて、小さな滴が頬を伝って、自分の流した涙を今頃になって自覚していた。
「……ありがとう」
 ギターを元の場所に立てかける。
 そして、隼乃は思わずこぼしていた。
「私には姉妹のように思っていた相手がいた」
 姉を心配してやまない美智子の境遇が、少しでも自分に重なるかと思えば、本当に思いもよらずこの口から、隼乃は自分の気持ちを吐き出してしまっていた。
「あの人はどこにいるのか。無事でいるのかもわからない。一人の人間がどうにかなってしまうということは、その人を大切に想う他の誰かにまで、色んな人が痛みを背負う」
 隼乃のことを信じてくれて、だから黒井川百合子が隼乃を疑ったとき、本当はそのことで傷ついていた弟の茂。クラゲリアンの恐怖に呑まれ、弟の五郎のことが心配でならなかった兄の顔だって見たばかりだ。
 そして、今ここには姉思いの妹だ。
 滝見零を失っている隼乃にとって、この美智子の境遇はやはり最も自分に近い。
 そう思うと、そう思えばこそ、胸の奥底で熱いものが沸き起こる。美智子のような女の子を恐怖させ、あまつさえ日本企業大量制圧による征服を目論むテェフェル。隼乃が過去に見てきた怪人社会をここにも作ろうとしている連中を決して許してはならないのだ。
「姉のようでもあり、親友だった私にとっての大事な人はもういない。いるかどうかもわからない。しかし、美智子ちゃんのお姉さんなら何とかなる。きちんと病院の中にいて、怪人の仕業による病気さえ治してしまえば元に戻せる」
 本当の意味で失われたものは戻ってこない。
 だが、中村りつ子は違う。
 美智子の姉はまだ、取り戻すことのできる場所にいる。
「だから美智子ちゃん」
 自分がどれだけ真剣で熱い眼差しを浮かべているか。情に浮かされた瞳で真っ直ぐに正面から美智子のことを射抜いているか。隼乃は自覚すらしていない。ただ美智子の前で肩膝を立てた姿勢でしゃがみ込み、きちんと顔を合わせて宣言しようと、少しでも安心させてやろうと、強い意志を持ってこう言いきる。
「この一ノ瀬隼乃が必ずシャチクモスキートを倒し、中村りつ子さんのことも救ってみせる。だから美智子ちゃんは安心して待っていればいい」
 そう、安心して欲しいと思ったのだ。
 どうしても怖がっていたり、絶望に陥っている年下の女の子の顔を見ていると、もう本当にたまらなかった。
 シャチクモスキートはきっとこの手で八つ裂きにしてやる。
 
     ††
 
 次の日。
 ヘルメットを被る南条光希は、同じくバイクに跨る隼乃を連れ、これから向かう目的地まで導いていく。頭の中にある道順通りに道路を進み、信号のたびに停まっては右折に左折を繰り返し、やがて二人がたどり着くのは城南大学の生化学研究室だ。
 アクション団体である山野剣友会。
 所属している大人の一人に、城南大学の教授を友人に持つという人がいて、そのことを前から知っていた光希は、ここぞとばかりに電話を通じて畳みかけ、無理も承知で紹介を頼んだというわけだ。
 結果としては許可が出て、今日にでも会える約束が取れたため、二人して敷地内にバイクを手押ししていき、駐車スペースに停めている流れになる。
 あとは約束の研究室まで足を運んで、廊下を進んだでドアを何度かノックして、主に光希が明るい笑顔と持ち前の外向性で挨拶を行った。
 わざわざお忙しい中、このたびはどうも、では早速本題ですが――といった、ほとんど社会人の大人同士で行うような形式張った握手や台詞の数々が、高校一年生である光希の口から当たり前のように湧き出ていた。
 小さい頃から大人に囲まれた環境で、さらには小学生の頃に戦隊映画への子役出演までしている光希である。一般の高校生にはない社会経験でそれらしい挨拶が身についても、さしておかしい話じゃない。
 そこに積極的な性格が加われば、このくらいのことはあまりにも当然だった。
 光希に言わせれば、特別に考えたり、意識などしなくとも、学校でやる友達との日常会話や大人とのやり取りでも、喋るべき言葉は自然と口から外へ出て行く。
「それで、その子が君の言う一ノ瀬隼乃くんかね」
 教授の視線が隼乃に向き、そこで初めて光希も隼乃に目を向ける。
「…………」
 ……そうだった。隼乃は、そうだった。
「どうも、見ての通り教授をやっている」
「………………」
「話ではとても優秀だそうだが、見たところ君も高校生だろう?」
「……………………」
「大人しい子だねぇ? もう少し何か話したらどうだね」
「最初の部分について答えるが、そうだ。私が一ノ瀬隼乃だ」
「……ああ、随分手前に戻ったね」
 さしもの教授も反応に困っていた。
 しかし、いくらでも人に声をかけていける光希なら、そういう口数の少ないタイプとも接したことはあり、返事を考えているあいだに時間が経ってしまうような子もいるのだとは、一応のところ知っている。
 まさに隼乃がそれであり、初対面では光希に対してもこうだったが、慣れれば普通に話をしてくれていたので、少しばかり忘れていた。
「光希。私の代わりに全て喋ってくれ」
 そして、自分で喋ることまで放棄しようとしているのだ。
「……自分で話しなよって言いたいけど、まあいいか」
 隼乃が自分の口で言うべき、主に隼乃が研究室を使いたい理由など、何もかもを光希の口から代弁して、学歴を聞かれてさえも光希が答えた。
 私生児のため戸籍はなく、詳しい身の上を話すには長くなるが、独学で得た科学技術に間違いはないと、無理のあって苦しい話をそれでも熱意と勢いだけで押し通し、研究室を借りるまでこぎつけた。
 最終的にある構図は、自分ばかり喋ってさすがに辟易している光希と、あれから一言も口を利いていないので、そもそも喋り疲れるわけもない隼乃というものだった。
「光希。ご苦労」
「本当にね。まったくもう……」
 まるで隼乃をカバーするためだけの代弁マシーンではないか。
 だが、その甲斐あって、とうとう成分分析に移ってからは、隼乃はこの研究室にある設備を存分に使い始めた。
 家庭や学校なんかには到底置かれることのない性能の顕微鏡を手に取って、蚊から抽出したものを目視したあと、さらにはガラス棚からいくつもの薬品を手に取ってはフラスコに調合を始めている。
 正直に言って、何をやっているのかわからなかった。
 光希は難関高校に通っており、偏差値が高い分だけ校則が緩いあまりに、バイク通学さえも許可される。しかも成績は学年で十番以内をキープして、一般的な高校生の平均に比べて遥かに頭の良い光希だが、その光希から見ても隼乃のやっていることがわからない。
 顕微鏡やいくらかの薬品くらいは、学校でやる理科の実験を通して、それこそ小学生でも触る機会はある。
 しかし、光希の目の前にいるのは科学者だった。
 まるでもう何十年も前から研究室に篭っていて、幾度となく実験を繰り返してきたように、薬品をスポイトで吸い取って、それをビーカーの中に垂らして、そういった作業の数々が完全に板に付いている。
 隼乃が自分と同じ十六歳で、本当なら同じ高校一年生であるはずの事実など、見ているだけでついつい忘れそうになってくる。逆に教授としての肩書きや何の博士号も持っていない、身分上は住所無しの無戸籍であることが不自然に思える勢いだ。
 もし隼乃が白衣を着て、多くの研究者と共に作業に取り組んでいたとしたら、てっきり教授か大学生のどちらかと勘違いするだろう。ずっと机ばかり見ていた顔がこちらを向いて、その顔が自分と同世代であることに気づくまで、きっと同い年である事実を悟れない。
 さしもの教授でさえ、隼乃を見るに呆気に取られていた。
「やはり思った通りのビールスだ」
「……ビールス? ウィルスじゃないのかね」
 その言い回しに対して、教授はそこで首を傾げる。
「この世界に来る前の下積み最中に学んだ種類だ。体内に入ったあと、脳に移動するという以外にも、怪人が持つ特殊臓器によって培養されるのが特徴だ。いわざ完全な怪人製で、自然には存在しないビールス。蚊を操る能力の応用で運ばせている」
「怪人? いや、この子は何を」
 教授の視線が光希を向く。
 この子は何を言っているんだと、どういう子なんだと解説を求める眼差しだった。
 色々と苦労を背負う羽目にはなったが、隼乃を連れて来た甲斐あって、無事に新薬を作ることができたらしい――ものの数時間で。
 
     ††
 
 翌朝。
 朝一番に病院を訪れて、受付で面会手続きをやろうとすると、必死の形相で外へ出ようとしている男性が、そのせいで騒ぎになっている現場と鉢合わせた。
「仕事だぁ! 仕事に行かせろォ! 行かせてくれェェエエ!」
 そうしなければ死ぬかのように、死に物狂いの表情を浮かべる男性には、何人もの白衣の男が組み付いている。たった一人を相手に何人もが組み付くのは、スポーツでいえばラグビーのタックルだったか。医者や看護師の集まりが、そうやって懸命に男を止めようとしていた。
 待合用のベンチソファにでも座っていたはずの老人達が、野次馬となって周りに集まり、人の輪が騒ぎを囲む。
「隼乃!」
 野次馬の背中と、その向こうにある騒ぎを見て、光希は咄嗟に隼乃と視線を合わせる。
「間違いない。ああした強迫観念に囚われるのはシャチクビールスの影響だ」
「急がなければ、りつ子さんも出勤してしまう!」
 光希がその名を出した途端だ。
「お姉ちゃん……!」
 美智子は何かに駆られたように走り出す。
 光希と隼乃も、すぐにその後を追いかけた。エレベーターに駆け込もうとした美智子が、ボタンを必死に連打して、けれどタイミングが悪いのでドアが開くまでに時間がかかる。いてもたってもいられない美智子は、だったら階段を駆け上がることを選んでりつ子のいる階を目指して行く。
 美智子の背中に続いて光希に隼乃と、三人並びでまず二階へと到達する。このまま三階へ向かうと思った美智子の背中が、目の前で横に飛び退こうと動くので、光希は咄嗟にその危機に気づいていた。
「働かなきゃ、働かなきゃ、働かなきゃ、働かなきゃ、働かなきゃ――」
 呪文のように唱える中年が、やはり出勤に自分の生死でもかかっている勢いで、顔を赤くして階段まで突撃してきたのだ。
 避けようとした美智子だが、それでも肩がぶつかった。
「きゃ!」
 そのせいで後ろに倒れかけ、美智子の背中が光希に迫る形となる。光希はすぐさま両手を前に出し、後ろから背中を支えて押し返した。
「大丈夫? 美智子ちゃん」
「危ないだろう!」
 美津子を気遣う光希の後ろで、隼乃が中年に声を荒げる。しかし、強迫観念に駆られた中年が見知らぬ少女の安否を気にかけることはない。中年はただ素早く階段を駆け下りて、そのまま消えるだけだった。
「なにこれ……」
 美智子の足が三階に向かうことはなく、この階の有様に目を奪われ、急に無気力になったかのように呆然としていた。
 どうしても出勤すると聞かない男性患者が嫌というほど溢れていたのだ。
 俺は仕事に行くんだと繰り返し、何人もいる看護師がいたるところで説得を行っている。力ずくでも行こうとする男をどうにか押さえ、行かせまいとする姿もある。
「やめてあなた! 昨日まで倒れていたのよ!」
「パパ! パパ!」
 痛ましい妻の叫びと、泣きじゃくる幼い娘の声までもが、どこかの病室から光希達の立ち尽くすこの場所まで届いていた。
 ……なんだ、この状況は。
 何かのドラマか映画あたりで、村人が一人の老人の家に押しかけるシーンに覚えがある。それは大抵、住民が誰かを迫害するためのシーンとして描写されるが、それを彷彿させる叫び合いが、こんな病院で起こるものだろうか。
 しかも、何人もいる患者が力ずくで出勤しようとする形で、この階だけでいくつも同じ騒ぎの現場が形成されている。
 どう控え目に見ても異常事態だ。
 誰かが警察まで呼んだらしく、光希達三人を後から追い抜いていくように、警察官のグループが現場内へと突き進む。
「りつ子さんでしょ。早く行くよ! 美智子ちゃん!」
 光希自身、呆気に取られた中からハっと目覚めて、思い出したようにそう言うと、美智子も同じように自分の心配するべき相手を思い出す。
 今度こそ女性患者の入院している階まで駆け上がり、部屋番号の札を見ながら廊下を進み、りつ子がいるはずの部屋に突入した。
「お姉ちゃん……」
 そこにりつ子の姿はなかった。
 ベッドから起きる際、上半身が起き上がる動きに合わせて持ち上がり、そこから両脚を抜いてそのままにされている布団があるばかりだ。
 いつからいない?
 まさかもう、りつ子は出勤したのだろうか。
 妹がシャチクモスキートを目撃して、狙われて追いかけられて、その直後に姉がおめおめと会社に顔を出したら、果たして無事で済むのだろうか。
 
     ††
 
 一ノ瀬隼乃の前にあるのは美智子の悲しむ姿であった。
 こんなはずではなかった。
 隼乃の科学技術や知識の数々は、怪人やドレスアップシステムの生まれた怪魔次元を基準に身につけたものである。この世界にとっては常識外の速度で新薬開発を済ませてしまい、これで明日には中村りつ子は元通りだと、隼乃は完全にそういうつもりでいた。
 病院なら医者や看護師の目もあって、そうそう抜け出すまいと思ったからだ。
 しかし、りつ子は行ってしまった。
「お姉ちゃん……どうして……」
 美智子は誰もいないベッドシーツを握り締め、姉の温もりを求めんばかりにしていた。体温が残っているかどうかもわからない。とっくにひんやりとしてしまっていることだろう。
 それでも、美智子は姉のいたシーツを持ち上げて、大切そうに悲しそうに抱き締めていた。
「一ノ瀬さん。お姉ちゃんは助かるって言いましたよね。だから私……」
 美智子の声にはどこか隼乃に対する棘があった。
 自分に矛先が向けられている。
 言っていた話と違うじゃないか。そんな様々な恨みがましさが込められて、ただそれが直接的な言葉にされないだけで、隼乃には嫌というほど十分に伝わっていた。
 姉が助かるはずの期待を裏切られ、もっと言いたいことがたくさんあるのだろう。悲しみに暮れている美智子の背中が隼乃を向けば、そこに浮かぶ眼差しは、きっと隼乃を責め立てるものに違いない。
 今に激しい責めの言葉を浴びせるため、こちらを振り向くのではないかと、そんな予感に駆られて隼乃は俯く。
「一ノ瀬さんって、高校生ですよね。どう見ても。なのにお姉ちゃんを助けるって、一ノ瀬さんに一体何が出来るんですか?」
「……」
 いくら美智子がシャチクモスキートの目撃者で、怪人の存在をわかっているからと、この世界の人間にドレスアップシステムの話をするのは唐突すぎる。
 隼乃は何も答えられずにいた。
「どうして私も信じちゃったんでしょうね。なんだか馬鹿みたいです」
 美智子はどこか自分のことも責めていて、隼乃のことが恨めしいより、よく考えれば自分が馬鹿で情けないことに気づいてしまったかのように思えた。そんな自嘲的で諦めの篭った声色でしかなかった。
「ごめんね? 美智子ちゃん」
 光希は静かに、隼乃と美智子のあいだに立っていた。
 隼乃のことを肩で庇いたいかのようにして、かといって美智子を責めるでも、説教めいたことを言うわけでもない。
「そうだよね。せっかく助かるって思ったんだもんね。だから言いたいことはみんな私に言って欲しいな。どんなことだって私が聞くから、ね」
 光希は自分を盾にしている。人を責めるような言葉が隼乃には刺さらないようにと、苦情があるなら全て自分が代わりに聞くようなつもりでいる。
 何故、そんなことができる。
 そうしようと思える。
 いずれ怪人社会を覆すことばかりを考えて、そのために励んできた隼乃は、いざ戦い始めてからのことをあまり考えていなかった。それはこういう情の部分だ。組織相手にどう立ち向かうかの作戦や方法論は頭にあっても、こうして何もできなかった責任を追求され、責められた時のことを想像するどころか、それ以前に完全に頭になかった。
 だが、実際に戦い始めてみれば、黒井川百合子からあんな言葉を言われた上、クラゲリアンの時はどうしても怖がる一部の子供が一緒に逃げてくれなかった。
 そして、今はこれだ。
 こうなった時のことも、一度だって考えたことがない。ただビールスを利用した作戦阻止のため、どんな新薬でも即座に開発できるようにと、あらゆる知識や理論を頭に詰め込むことだけで、被害者との接し方については何もない。
 本当の本当に、組織との戦い方、対怪人の格闘術。
 それだけに気持ちの何もかもが集中していた。
 今はもう少しだけ、他のことにも目を向けたいと思っている。
 それは……。
 
「あ、あの!?」
 
 隼乃も、光希も、それに美智子も、三人が一斉に振り向いた。
 この病室の戸のところで、果たして追いかけて来たのだろうか。軽く息を切らし気味に、肩を上下に動かしている少年は、およそ小学校高学年のあどけない顔立ちだった。
「……あの! 南条光希さんでしょうか!」
 まるで生まれて初めて気になる相手に声をかけているかのように、人違いだったらどうしようかという不安がありありと表れてもいる面持ちで、どこか恐る恐るといった具合に遠慮がちに期待感を抱いている。
 考えてもみれば光希は著名人だ。
 本人曰く、着ぐるみに入る方が本職とはいえ、男役でヒーロー映画の主演をこなし、先日のヒーローショーでも雷道霧破としてステージに立ったばかりだ。南条光希という俳優のファンがいてもおかしいことはないだろう。
「そうだけど、君は?」
 光希は自然と膝を屈めて、頭の高さを相手の身長に合わせていた。あまりにも自然とさりげなくというべきか、とても意識的にそうしたようには見えなかった。むしろ本人ですら無意識で、気づかずに視線を合わせたのだとしても驚かない。
「あの俺、九条海斗っていうんですけど、そのあの、ええっと……!」
「うん? どうしたの? 大丈夫、言ってごらん?」
 そこには柔らかさがあった。
 にこやかにしている表情にも、いつもより優しく母性に溢れた声のその感じにも、大丈夫だから安心してもいいんだと、相手にそう思わせてしまう魔力がある。
「あの! 弟に会ってくれませんか!」
 この海斗という少年は深々と頭を下げていた。
「海斗くんの弟に?」
「はい。俺の弟っていうか、父さんが過労で倒れてて、それを弟が心配してて、もしかしたら元気出るんじゃないかって……」
 海斗には不安を帯びた眼差しが浮かんでいた。
 やっぱり駄目なんじゃないかと、断られるのではないかと恐れている。
「いいよ」
 逆に拍子抜けするほど、光希は呆気なく即答していた。
「え? あの、本当に……」
「弟のことを心配して、そんな時にたまたま私を見つけたんでしょう? だったら、海斗くんは弟想いのいいお兄ちゃんだ」
 海斗の顔からみるみるうちに不安そうな色は消え、もっと明るい希望に染まっていく。
 クラゲリアンの時もそうだった。
 どうしても怖がって動かない子供達が、電刃忍者霧雨を見た途端に動き出す。みんながよく知るシンボルだからそうなったとばかり思っていたが、そもそも光希の姿勢にこそ、何かを和らげる力がある。
「美智子ちゃん」
 隼乃はそっと、握力を込めすぎないようにとよく意識して、できるだけ軽い力で美智子の腕を掴んでいた。
「美智子ちゃんも一緒に行こう」
 この子にも見て欲しい。
 南条光希を――。