第5話「シャチクモスキートのブラック企業!」part-D



 話を聞けば、九条海斗の弟は前からこの病院に入院している。病弱な春人のために両親共働きで、特に父親は毎晩遅くまで働いていた。そんな父親の入院を知り、顔色を悪くしていた春人は、先ほどの騒動で父が狂ったように出勤したと聞き、心因性による悪化で吐き気や熱を出してしまったという。
「どうしてお父さんがあんな風になったのか。俺には全然わかりません」
 それはどうだろう。
 海斗はシャチクモスキートの目撃者というわけではない。
「せめて、弟だけでも元気になれば……」
 その願いを聞こうと光希は、すぐにメイクをやりにこの場を離れ、さすがに一旦家に戻っていたのだろう。
 三十分後には病院前の駐車場にバイクを停めて戻ってくる。衣装が目立たないように上着を羽織り、ついでなのかサングラスもかけていた光希が、素顔と衣装姿を曝け出せば、もうそこに光希はいない。
 どういう手を使ったのか。サラシを巻いただけだろうか。
 胸の膨らみはどこかに消え、黒い忍者装束の中身がただの男の胸板に見えてくる。腰つきのよく絞られたスタイルも、より男の体格に近づいた。
 元から中性的な顔立ちで、首から上だけを切り取りでもしていれば、光希の顔は男女の区別がつきにくい。胸が同時に視界にあるから、おかげで自然と女とわかる部分があった。その胸が平らでは本当に男と間違える。
 目のまわりにラインを乗せ、テープで皮膚を伸ばして顔の印象も変えている。
「オッス!」
 おまけに演技で声まで低いのだ。
「本当に霧破だ……!」
 海斗は感激に声を震わせていた。
「っていうか、本当に有名人なんですか?」
 電刃忍者霧雨を知らないらしい美智子は、そもそも光希に映画出演経験があること自体に驚いている様子で、さらにはルックスに目を奪われていた。元から凛々しい顔の鋭い美貌に磨きがかかり、生半可な乙女など眼差しだけで射抜ける勢いである。中学生の美智子が顔を赤らめないはずもなかった。
 生のヒーロー役者に憧れの目を向ける男の子と、もっと単純に格好いい男の人に心奪われている美智子の目と、二人の視線はそれぞれ性質が違っていた。
「おーし、海斗くん。そんじゃ行こうぜ?」
「あ、はい!」
 光希――ではなく、雷道霧破は海斗を連れ、今一度病院へ向かっていく。
「行こう。美智子ちゃん」
 隼乃もまた美智子を連れ、二人の背中へ着いて行き、受付から階段を上がっていくまで、隼乃は霧破の振る舞いを凝視していた。それこそ視線で人の背中に穴でも空けたいほど、貫きたいほどに目つきを鋭くしていた。
 霧破は海斗に笑顔を振り撒き、弟想いのよいお兄ちゃんであることを称えている。
 ――君も俺の活躍見てくれたのかな、まあヒーローは卒業する年頃だもんな、けど俺のことは知ってくれてたんだな。嬉しいぜ。
 しきりに海斗に語りかけている姿は、だんだんと良い兄貴分と弟分の関係に見えてくる。
 弟、春人が入院するのは個室であった。
 兄がお見舞いに訪れて、話を聞くに小学一年生らしい男の子がベッドから起き上がる。よく知る兄の顔にパっと明るい笑顔を浮かべてから、会ったこともない知らない人が他に三人もついて来ていることに不安げな面持ちとなる。
「よお、春人」
 片手を挙げる軽い挨拶の動作をして、まずは海斗が春人の傍へ歩み寄る。
「お兄ちゃん。その人たちは?」
 いかにも不安で、どこか不審がっている気持ちが、そう問いかける春人の声にありありと滲み出ていた。
「よく見ろって、この人。お前なら誰だかわかるだろ?」
 そう言って海斗は霧破を指す。
 言われるまま霧破に視線をやり、前のめりのようになりながらよーく見て、その正体に気づくとみるみるうちに表情を一変させた。
「雷道霧破!」
 自分の好きなヒーロー役者がお見舞いに来てくれるのは、果たして子供にとってどんな気持ちなのだろう。ヒーローショー後の握手会に長い列が出来たくらいだ。一般人の子供には貴重な体験どころの話ではないのかもしれない。
 不審がっていた様子も、不安そうな影のかかった顔色も、何もかもが一瞬にして消し飛んで、春人は慌ててベッドから降りていた。
 慌ててスリッパを履き、慌てて歩み寄り、春人は霧破の目の前まで近づいた。
「オッス。雷道霧破だ」
「本物?」
「……見てな? 稲妻流正統! 雷道霧破!」
 名乗り台詞に合わせたポーズで足は肩幅程度に開き、印結びで絡め合わせた両手を前に突き出す。
「本物だぁぁぁ!」
 春人は途端に大歓喜だ。
 嬉しさのあまりにはしゃぎにはしゃいで、霧破はそんな春人の頭を撫でて、握手をしてあげている。
「いつから入院してるんだ?」
「うーん。ずっと前から」
「ずっと前かー。早く治るといいのにな」
「うん!」
「病気なんてな、えい! って、ぶっ飛ばしてやるんだ。そういう気持ちが大事」
 霧破が励ましの言葉を受け、春人は嬉しさに溢れた顔でそれを受け取る。
 隼乃はそんな二人の様子を見守っていた。
 そして、一歩も二歩も離れたところで、その隣で同じく見守る美智子へと、隼乃はそっと小さく漏らしていた。
「私はあんな風になりたい」
 それは単純に霧破のようになりたいという話ではない。むしろなりたいのは光希の方だ。
「私は美智子ちゃんが見たものと、あの連中とは、前から関わりを持っている。だからこそ、ああして誰かを励ましたり、不安や恐怖を和らげてやれるようになりたいんだ」
 隼乃は思う。
 そのためにも、光希は一体どうやって育ってきたのか。どんな日々を重ねて今の光希に至るのか。光希のことを詳しく知りたい。
「私には私のできることをやる」
 隼乃は美智子に言い聞かせた。
「確かに美智子ちゃんはテェフェルの目撃者になった。それでいてお姉さんが会社へ行った。かなり心配な状況だが、必ず間に合う。大丈夫だ」
 熱くなっている自覚はなく、けれど隼乃の静かな声には熱気がある。光希に抱きつつある敬意と、それを目指したい目標への思いが、テェフェルを許せない全て宿って、隼乃の魂は美智子の心を揺らしていた。
「一ノ瀬のこと、やっぱり信じます」
「美智子ちゃん……!」
「さっきは変なこと言ってごめんなさい。お願いします! お姉ちゃんを助けて下さい!」
 たった一つの祈りを込めて、美智子は深く頭を下げていた。
 それを見て、隼乃はしゃがんだ。
 単に光希の真似なのだが、目線の高さを合わせてみようと思ったのだ。こうすればより正面から、相手の顔を真っ直ぐ見つめてこう言える。
「任せるんだ」
 決心は固まった。
 元より怪人は倒す。シャチクモスキートの野望は阻止するつもりだ。
 しかし、より一層の意味で決意は固くなったのだ。
 
     ††
 
 中村りつ子が勤める商社は、県内中央地域にいくつかあるビルの一つだ。
 龍黒県は東が都会、西が田舎のように二分され、バスや電車の交通網も片側に集中している。
 中央地域では田畑やビル市街が混在しており、その混在線がそのまま東と西の境界線となっている。
 ということは、県内人口も東に偏る。東側への行き来がしやすい境界線やその周辺にも人口集中は及んでいるも、いずれにしろ西へ行くほど人は少ない。中央地域はあまり渋滞にもならないのだ。
 そうした通りやすい道路を一ノ瀬隼乃は走っていた。
 白銀のマシン、エックストライカーに跨がって、すぐ後ろには光希のバイクが着いてきている。信号機による足止めにはかかることなく、まるで二人に合わせるように青色に変わってくれる。おかげで減速や停車は最低限で、スムーズに目的地へ迫っていた。
 しかし、直接は会社に行かない。
 付近の駐車場を入れ、光希はそこに停車する。
 隼乃はエックスブレスからカードを抜き、物質情報を仮説式異空間に返還させた。バイク一台が消滅する光景は、光となって霧散するというべきか。光る粉の固まりであったように一瞬で消えていく。
 まだ迷いはあった。
 それが好ましいこととは思わない。まだギリギリで後戻りのできる際どい場所から、完全にこちら側へ引き込むことに思える。だが、隼乃はローズブレスを黒ジャケットのポケットから取り出して、それを光希に投げ渡す。
「これは……!」
「怪人は全て私が倒す。それはやむを得ない状況にでもならない限り、使わないようにして欲しい」
「……わかった。そうするよ」
 ローズブレスは光希の白ジャケットのポケットへ収まった。
「ここにはシャチクモスキートのみ。他の怪人は出ない。私の指示通りに動いてくれればそれでいい。私が奴を倒す」
 この戦いを始めるまで、対怪人を想定した格闘術以外にも、敵地潜入や基地の破壊や作戦阻止のノウハウを培うプログラムも行っている。表向きには世界征服を行うエージェントとして働くため、敵と同じ養成過程を経ているのだ。
 テェフェルの動きはわかる。
 キングマンモスでも来ない限りはどうとでもなる。
「やんなきゃね」
 とても真剣な眼差しで光希は言った。
「もちろんだ」
 隼乃も真剣な面持ちで頷いて、シャチクモスキートとの戦いに望んでいった。
 
     ††
 
 某商社ビルの社長室には高級なデスクとソファが揃えられ、壁にはさりげなく絵画なども飾られている。観葉植物を窓際の部屋の角に、美術品の壺が棚の上に、いかにもインテリジェンスな趣味の空間が出来上がっていた。
 その椅子に元は人間の社長が座っていたのは言うまでもない。
 しかし、今の元社長はシャチクビールスによって脳を侵された奴隷に過ぎず、シャチクモスキートが我が物顔でデスクと椅子を占領している。
 壁の上部。天井には届かないが、背の低い人間の手も届かない。ちょっとした高所に金属製のエンブレムが埋め込まれていた。
 古典的な悪魔が皮でできた両翼を広げたイメージで、尻尾の先が三角形にもなっているマークデザインは、概ねシルエットとして形だけを成している。そこに若干の切れ目や凹凸を施すことで、悪魔の顔立ちや造型がはわかりやすくされており、両目の穴には赤い物体が使われている。紅色の宝石のようでも、単なるプラスチックのようでもあり、あるいはテェフェル製の特別な素材ということも考えられた。
 それはそういうデザインで作られた通信機だ。
 テェフェル首領が手下の幹部や怪人達に連絡を送るため、テェフェルからの特別信号を受け取る受信機と、マイクにスピーカーが内蔵される。
『シャチクモスキートよ』
 男の声が流れる一語一語のリズムに合わせ、赤い両目がチカチカと点滅している。
「ははぁ!」
 シャチクモスキートはすぐさま床に膝を突き、まるで王に忠誠でも誓ったようにエンブレムへと頭を垂らす。
『仮面プリンセス一ノ瀬隼乃は必ず貴様の会社を狙う。迎え撃つ準備は出来ているのか』
「洗脳兵を用意してございます」
『ほう。洗脳兵か』
「我がビールスに脳をやられた人間は、最終的には洗脳によって意のままとなる人間と変わりがありません。そこで愚かな社員どもに爆弾首輪を取り付け、人間爆弾としても使える洗脳兵として一ノ瀬隼乃を迎え撃つ」
『なるほど、ただ操られているだけの一般人に仮面プリンセスは手が出せない。しかも人間爆弾にもなるとするなら、戦闘員よりも有用性の高い戦力というわけだ』
「そうです。もはや奴の命も今日までとなるのです」
 憎き仮面プリンセスの首を討ち取って差し上げれば、マンモス将軍どころかテェフェル首領じきじきに栄光の報酬が与えられ、将来の地位が約束されるに違いない。シャチクモスキートはそんな計算もあり、一ノ瀬隼乃という特大の手柄を狙っているのだ。
『しかし、我々はシルバーXの全てを把握しているわけではない』
「もちろん承知にございます」
 初めから裏切る計画でテェフェルに加わっていた隼乃のことだ。テェフェルが握るドレスアップシステムのスペックは虚偽の情報に他ならない。戦うたびに新しい技を見せており、シルバーXの実力の限界は本人にしかわからないのだ。
 判明している能力に対策しても、また新しい能力を使ってくるかもしれない。
 その脅威性などシャチクモスキートとて承知でいる。
『そこでシャチクモスキートよ。貴様に応援の仲間を与えよう』
「……お、応援ですか?」
 仲間を増やされることへの躊躇いは、手柄もその怪人に分配され、自分の取り分が減らされるのではないかという不安からだ。
『臆するな。見事一ノ瀬隼乃を始末したなら貴様の未来は安泰と約束しよう』
 心を見透かしているかのように、テェフェル首領はそう言った。
「では、その応援に来る怪人とは」
『サラセニードルだ』
 その瞬間だった。
 
「――ニィィィィドォォォォォオル!」
 
 前のサラセニードルと違って、より中性的な声を張り上げる食虫植物怪人は、別の人間を素体に生み出された別個体だ。まあ男ではあるのだろうが、実は男性の声を真似るのが得意な女性に喋らせていると言われても、それはそれで納得できそうな、どことなく性別のわかりにくい感じがある。
 いや、ここまでドスが効いていて、濁音がかってもいる声など、やはり女性なはずはない。
「ほう。サラセニードルか」
 怪人が改造手術から生まれる以上、別の適正者に同一の手術を行えば、同一の姿を持つ怪人が複数生まれることになる。過去のサラセニードルとは別人というわけだ。
 最初のサラセニードルはほとんど通用せずに負けている。シルバーXの持つ技にツタを使った攻撃は通用せず、最後には竜巻Xドライバーの威力を受けて死んだのだ。理論上はそれと同一スペックになるはずで、果たしてこいつが戦力になるのかは少々疑問だ。
 とはいっても、あれよりも良いところまでいったクラゲリアンも、理論上のスペックではサラセニードルとは大差がない。改造に使われた素体の優秀さや本人の技の磨きによっても変化するため、ならば今回のサラセニードルの方が強いのだろう。
『万が一にも洗脳兵の作戦が破れ、一ノ瀬隼乃と直接対決を行うことになっても、突破困難な作戦を前に消耗していることになる。そこを二人がかりで叩けば確実という寸法だ』
「なるほど」
『ついでにそいつはまだ成り立ての下っ端だ。怪人特権を与えるにはまだ早い。最初は雑用として、さしずめ首輪をつける作業はそいつにでもやらせるといい』
 何だ、そういうことか。
 要するに召使いをくれたのだ。
 既にこの会社だけではない。日本の何十社にも影響を与えているシャチクモスキートは、日本征服を何割も侵攻させたといっても過言ではない。今でさえ大きな手柄の持ち主で、業績を評価されるのは当然だ。
 それ故の計らいならば、首領じきじきの厚意を蹴るわけにもいかないだろう。
 それに優秀な部下を育てれば、結局はシャチクモスキートの評価に繋がる。
「ははぁ! 首領のご好意に感謝致します」
 本当はサラセニードルなど必要ないが、首領が言うなら実際に雑用でもやらせておこう。
 社員全員に爆弾首輪を付ける作業は全てサラセニードルだ。
 
     ††
 
 オフィスに並ばせた社員達は、総じて満面の笑みを浮かべて首輪を受け入れた。どうして首輪を付けるのか。どんな首輪なのかは気にも留めない。それが会社のためなら光栄でたまらないことが全てであり、その栄誉から表情が輝いているようだった。
 貼り付けたような同じような笑顔が男女の区別もなくずらりと並び、首輪をかけられたことにお礼まで言い出す社員の状態は、控え目に言っても気味が悪い。
 このサラリーマン達が兵士として扱われ、各部隊に分かれて所定の場所で待機する。隊長に任命された者が無線機を持ち、シャチクモスキートからの指示を受け、シャチクモスキートの望む通りに部隊を動かす。打倒一ノ瀬隼乃のための消耗品だ。
 あとは監視映像で社内全体を見守るだけだ。
 ビル内全域にテェフェル製の監視カメラが仕掛けてある。もちろん社員に設置させ、適当なフロアにモニターの数々を持ち込んだ管制室は、今やテェフェル戦闘員が管理している。
 社員の様子も異常極まったが、こうしてセキュリティさえもがテェフェルの手にある。他の何十社も同じ状態になっていようというのだ。まるで日本全体が征服された場合の未来の縮図を見るようで、サラセニードルはいっそ戦慄さえしていた。
 
     ††
 
 隊長を任された大河原良夫という男は、テェフェルに占領される前から業績を誇っており、部下からの信頼も厚い人物であった。ビールスに感染した初期では、単に人が変わったとしか思われないが、病院での騒動のように、大河原もまた異常というべき状態になっている。
 社員の状態もシャチクモスキートの意のままであり、そのシャチクモスキートが大河原に隊長を任せた以上、この男の命令は今だけはシャチクモスキートの命令も同じになる。
「上からの命令だ。これから、みんなにはワクチン注射を打ってもらいたい」
 まるで社員一丸となって仕事に励んでもらいたいかのような、業務について語る顔をして、専門の医者を呼んだわけでもないのに何故か注射と言い出している。
 しかも、用意していた。
 大河原が片腕でトランクを持ち上げて、デスクの上にそれを空けると、何本ものワクチンに注射器の替えに、消毒用のアルコールからガーゼまで、さしずめ予防接種や血液採取の現場にでもあるべき物品が揃っていた。
 何かがおかしいのは明らかだが、誰もそれを指摘しない。
 大河原が指示を出すなり、すぐにでもワクチン注射の列は出来上がり、サラリーマンが部下一人ずつに注射を行う奇妙な現場が形成される。それぞれに腕を出させて、皮膚の上から針を刺すべき血管を選び抜き、ガーゼで拭いて打ち込む手際の良さは、もう完全に手馴れた医者のそれとしか思えない。
 彼の正体は一ノ瀬隼乃だ。
 特殊メイクで顔さえ変えれば、身長の高い隼乃であれば男性にも成り済ませる。現実にもメイクの技術が発達している中で、この世界よりも水準の高い科学を知る隼乃が、顔や声を誤魔化せない理由はなかった。
 さらにはアンテナ付属機器を操って、電波関係の操作まで始めている。
 シャチクモスキートの指示もないのに無線を使えば、間違いなく管制室で傍受されることになるだろう。ならばダミーの電波を入れ、さも無線が使われていないように見せかけて、実のところ他の隊にも連絡を入れる。
 注射ケースを持ち歩き、社内の廊下を渡っていき、他のフロアでも社員達に注射を施す。
 また別のフロアへ移動しては注射を打ち込んで、それを繰り返す地道な作業を始めてから、数時間もすれば全社員にワクチンが打ち終わる。効果が出るまで時間があるので、まだビールスの影響の残る今のうちに待機を命じて、およそ計画通りに洗脳兵としての利用を封じた。
 
     ††
 
 長時間が経過しても、一向に仮面プリンセスは現れない。
 中村りつ子の妹と関わりを持った以上、正義感が煽られて、必ずここまで来るというシャチクモスキートの読みは外れてしまったのか――いや、そんなはずはない。あるいは、本当はもう既に来ている可能性はないだろうか。
 社内に多数設置してある監視カメラと、そのモニターを目視で凝視している戦闘員の目が、一ノ瀬隼乃の侵入を必ず捉える。この監視網を掻い潜ることは不可能だ。
 しかし、相手は一ノ瀬隼乃。
 もしや何か手を打っているのではないだろうか。
「おい、いくらなんでも仮面プリンセスは遅すぎる。今すぐダミー映像に差し替えられていないか確認しろ」
「そ、そんなはずは……リアルタイムで随時確認しておりますが……」
「ええい! 相手は一ノ瀬隼乃だぞ! もっと細かく調べてみろ!」
 シャチクモスキートは戦闘員に命じた。
 戦闘員は直ちにデータの確認作業に入り、不審な操作が行われていないか洗い出す。
「だ、ダミーです! こちらが本来の映像です!」
 そういって戦闘員が画面を切り替えると、そこに映るのは堂々と廊下を出歩く大河原良夫の姿であった。
「くそぅ! 奴こそが一ノ瀬隼乃のはずだ! 社員はもう兵士の代わりに出来ない!」
 だが、まだ切り札の人質として中村りつ子が残っている。
 首輪爆弾で全社員さえも人質と同じことだ。
 さてどう動く?
 ひとまずは出し抜かれたが、直接対決のケースに備えてサラセニードルまで控えている。圧倒的な優位に変わりはなく、一ノ瀬隼乃の首を持ち帰れば大手柄だ。みすみすチャンスを逃すことだけはありえない。
 出迎えてやろう。
 シャチクモスキートは椅子の上から腰を上げ、戦闘員とサラセニードルを引き連れた。
 
     ††
 
 一ノ瀬隼乃は自分自身の顔を掴んで、握力で指を皮膚に食い込ませる。大河原良夫に成り済ますための特殊メイクを引き剥がし、その内側に今の今まで隠し続けた素顔を晒した。もう正体を隠す必要のない頃だからだ。
 いつものように背中に薔薇のマークを掲げた黒ジャケットを身に纏い、ジーパンで長い足のスタイルを際立たせる。指貫グローブの無理なく似合う美麗な容姿で、隼乃は迷いなく社内を突き進む。
 社員食堂に入ったところで、ちょうどシャチクモスキートと鉢合わせた。
 清潔な椅子とテーブルが並べられ、見れば券売機の設置がされている。いつもなら社員はそこに小銭を入れ、カウンターの向こうにいる調理師達から注文の昼食を受け取って、昼休憩の食事を済ませるのだろう。
 いるべき調理の人間も、食事をしている社員の姿も、今はどこにもありはしない。
 がらんどうの中にあるのは張り詰めた静寂と、両者の眼から飛び出る殺気と殺気が火花を散らす緊張感だけだった。
 お互いが命を取り合う関係など、もはや言うまでもないことだ。
 シャチクモスキートとは初対面だが、隼乃はそのスペックを知識的には知っている。向こうも今までシルバーXが発揮した限りの能力を知っている。ついでに言えばローズブレスでの変身も警戒するだろう。
「…………」
「…………」
 両者無言。
 しかし、勝者が生きて敗者は死ぬ対局で、どちらが先に一手を打つか。隼乃が動いてシャチクモスキートが応じるか。はたまたは向こうが先か。相手の指一本にかけてまで神経を集中させる隼乃は、その背後に控える戦闘員やサラセニードルの存在にも気を配り、ただの呼吸を格闘術のための呼吸法へと、一息吸って吐くたびに近づけている。
 右腕のエックスブレスに既にカードは入れてある。
 あとは――。
 
「変……身……!」
「一ノ瀬隼乃! これを見ろォ!」
 
 ほとんど待ち構えていたようなタイミングで、隼乃が変身過程に入ろうとした途端に、シャチクモスキートはその手で中村りつ子を前に押し出す。
「貴様がこいつの妹と関わりを持っていたのはわかっている。正義感のある貴様なら、必ずや姉を救って来ると約束していてもおかしくない。つまり、変身すればスイッチ一つでこいつの首は消し飛ぶのだ!」
 見せつけるようにして、シャチクモスキートはスイッチを片手に腕を突き出す。あの右手に握られた赤いボタンのスイッチが押されれば、電波信号によって爆破装置は作動する。こんな屋内で使用する火力と考えると、おそらくは首から上だけを綺麗に消滅させ、その下の肉体は残す悪趣味なものにしてあるはずだ。
 だが、可笑しかった。
 笑えて笑えて仕方がなかった。
「ふふふっ、ははは……はっはっはっはっは――」
 込み上げる笑いをここで吐き出しておかなければ、もう堪えきれないところに来ていた。
「おのれ一ノ瀬隼乃。何が可笑しい何を笑う! 狂ったのか!」
「悪いが正気の中の大正気。お前のその私の手の平で踊り続ける姿が、だんだんと面白く思えてきたまでの話だ!」
 その瞬間、シャチクモスキートはうろたえる様子を見せた。
 それもそうだろう。
 私の勝ちだと直接的に言わないだけで、隼乃は言外に勝利を宣言している。
「馬鹿な。俺が貴様の手の平で踊るだと?」
「ハッタリだと思うならスイッチを押してみればいい。私の勝利は既に決まっている!」
 言外だった勝利をいっそ言葉にしてしまって、それがますますシャチクモスキートを動揺させていた。
「なんだと? 人質がどうなってもいいというのか?」
「どうした! 押してみろ!」
 隼乃は凄味を持って言い切った。
 シャチクモスキートは迷っている。せっかくの手札を無意味に消耗しては人質の意味がなくなる。りつ子がいなくなった途端、隼乃は迷いなく変身できる。あるいは人質なんて見捨てるつもりで、だからこんなに強気に出られるのだろうかと、そんな考え方もしているはずだ。
 迷いに迷い、赤いボタンに親指を乗せては離している。押そうか押すまいとしている挙動はしだいにもっとわかりやすく、全身の挙動にまでうろたえた様子が浮き上がり、上の動揺は波紋のように周囲に広がり、戦闘員とサラセニードルにまで伝染していた。
「おのれ! 望み通り押してやる!」
 そして、シャチクモスキートはボタンを押した。
 それと同時に戦闘員達の視線という視線の嵐がりつ子へと殺到して、これから起こるべき爆発を見届けようと、巻き込まれないように離れようともして、一瞬にして全員がそれぞれの反応を示していた。
 それからだ。
「…………」
「…………」
「…………」
 数秒経っても何も起きない事実に、まるで時間でも止めてしまったように、戦闘員達はそれらの戦慄を顔や胸に残して固まり続けている。
「ど、どういうことだ!」
 ほどなくして、ようやく爆発が起きない事実を理解して、シャチクモスキートと戦闘員は急にオロオロと慌て始める。
 
「――ニィィィィドォォォォル!」
 
 さらにサラセニードルが腕から発達しているツタを振り、鞭打ちによって身の回りの戦闘員を手当たりしだいに叩きのめす。
「何をするサラセニードル!」
 連続した状況に整理がつかないシャチクモスキートは、仲間の裏切りに一層のこと動揺を膨らませていた。
 そんなシャチクモスキートを指してサラセニードルは言う。
「聞けぃ! シャチクモスキート! もはや貴様の悪事もこれまでなのだ!」
 そう言ってすぐにサラセニードルは、中村りつ子の肩に腕をまわして小走りで駆け離れ、隼乃の隣へと並び立つ。
「じょ、冗談じゃない! テェフェルからの二人も三人も裏切り者あってたまるか!」
 自分自身で口にした言葉にハッとして、何かに気づいた様子を見せるシャチクモスキートは、震えた指でサラセニードルを指す。
「……ま、まさか! サラセニードルの中身は南条光希!」
 隼乃に特別な演技力はない。
 だから大河原に化けていたあいだも、ビールスが脳に達している通常判断力が低下している点を良いことにしていたし、そもそも普通の日常生活を送る人間達だ。まるで人が変わったようだと感じることはあっても、ニセモノだという発想が出てくる者がどれほどいるか。
 それと同じようにして、味方を疑う発想が簡単には出てこないことに期待した。
 そして、畏れ多い偉大な存在テェフェル首領からの言葉となれば、シャチクモスキートとしてはサラセニードルを怪しく思うことはできなかったはず。表情や台詞を使わずとも、全身の動作や手足の細かい挙動だけで感情表現の演技が出来る光希であれば、シャチクモスキートを欺くには十分だった。
「気づくのが遅かったようだな! シャチクモスキート!」
 ここにある意味光希はいない。
 演技屋としての、職業人間としてのスイッチが入ったままの光希は、中身について知られてなおもサラセニードルであり続ける。この作戦を考え出し、着ぐるみだのワクチンだの、爆弾阻止の電波妨害の仕掛けだの、何から何まで用意した張本人である隼乃自身、まるで怪人の一人を味方につけることに成功した気分になる。
「あとはお前を倒すだけだ!」
 今度こそ――隼乃は両腕を左右に広げた。
 身体を『大』の字のようにして、わずか一瞬の間のうちすぐに両腕を回転させる。
 
「変――身――!」
 
 準備体操の一部にある動きに似て、指先が天を向き、二の腕が耳に触れるまでになった時、そこから胸の手前に両腕のクロスを作る。
 そして、クロスの交点によって腰横を叩く。
 片腕はそのままくっつけ、左腕だけをバウンドじみて浮かせたあと、手の平は上向きに反らせてある。その腕を横から横へとスライド移動のように滑らせて、スタート地点である右肩のラインから、左肩のラインを超えたところで、変身システム起動に必要なモーションコードの入力は完了だ。
 これにより、物質情報の交換が開始する。
 現在の着衣物が仮設式異空間に転送され、変身後のコスチュームと入れ替わるのだ。
 時間にすれば一瞬だった。
 ポーズを取って変身が開始され、一ノ瀬隼乃から仮面プリンセスシルバーXの姿へと変化が完了するまでに数秒とかかりはしない。
 しかし、この一連の物質情報交換現象は、いくつかの段階を踏まえて視覚化されていた。