第5話「シャチクモスキートのブラック企業!」part-E



 一ノ瀬隼乃の首から下は発光していた。
 光子をタイツの形状にしたものか、あるいはオーロラのような輝きの光そのものを着ているとでもいうべき状態だ。胸も腹も下半身全体も、血肉自体が発光物に変化したかのようにも例えられる。
 その正面――隼乃の目の前には等身大の『X』の文字が出現していた。
 フォントの正しい赤いXは、まるで本当は目には見えないサイズだっただけで初めから存在して、隼乃の変身開始をきっかけに急に拡大されたかのように、完全に何もなかった空間から発生している。
 そして『X』の文字を形成するべき線の一本が、急に前後スライドというべきか、隼乃の肉体を打ち抜いた。身体を透過して前面から背面へと通り抜け、その斜線は――『/』は、透明度を一気に上げたがごとく消え去った。
 この線が隼乃を打ち抜く一瞬が、身体の輝きを打ち弾く。内側から光の粉が弾けるようにして発光がなくなると、そこには白銀無地のコスチュームが現れていた。線が打ち抜いたせいなのか、それとも強化衣装の出現こそが光を四散させたのか。
 アルファベットの『X』だった斜めの線は、これでもうただの『\』でしかない。
 残る片方も隼乃の肉体を貫いて、通り抜けていくのに合わせる形で、通過している前と後ろで、足跡でも残すかのように無地だった白銀衣装によりデザイン的な配色が施される。胸や腹にかけてブラックカラーが付け足され、肩から腕にかけては赤い一本のラインが通る。
さらにはハチマキのように巻くタイプのマスクも現れ、後頭部の結び目から伸びる二本の尾が、風に揺られたようにふわりと揺れた。
 
     ††
 
 シルバーXは全身脱力を行って、内側にある筋肉はどこかだらんとしていながら、両腕は今すぐにでも打撃の打ち合いを初めても構わないスイッチが入っていた。
 片足だけを前に出し、腰を少しだけ沈めてある姿勢から、呼吸法にかけての全てに戦いにおける合理性が備わっている。
 相手が先に仕掛けて来たなら、片腕をガードに使ってもう片方の腕でカウンター。逆にシルバーXが先に踏み込み、迅速に間合いを詰めることも可能。軸足を使った身体回転。身軽なステップで避けてまわること。ボクサーのように上半身を左右に振り回すパンチの避け方。
 ありとあらゆる動きに移る準備が整えられ、シルバーXは既に相手のどんな挙動にでも反応できる状態だ。
 だが、それはシャチクモスキートも同じことだ。
 まばたきの隙を晒しただけで、シャチクモスキートは途端に仕掛けて来るだろう。
 お互いがお互いの存在全てに神経の集中を注ぎ込み、シルバーXはそれを皮膚感覚で感じている。相手の闘気が熱いモヤのように感じられ、実際にはありもしない湿気のむんわりとした中に包まれた心地がする。汗をかく気温でもなければ激しい運動の一つも始めていないのに、シルバーXは毛穴から汗の玉を浮かせていた。
 まだ数人残った戦闘員は誰もシルバーXを警戒していない。
 光希――否、完全にサラセニードルのつもりでいる人が、怪人とシルバーXの一騎討ちを邪魔させないために目を光らせている。戦闘員は揃ってサラセニードルを警戒せざるを得ない。
 シャチクモスキートはどう出るか。
「…………」
 未だシルバーXの動きに集中して、様子を伺い続けるだけだ。
 ならば――。
「いくぞ!」
 シルバーXから駆け出す。
 それに弾かれたようにシャチクモスキートも、サラセニードルも戦闘員も走り出し、その中でもシルバーXとシャチクモスキートが周りと比べて何秒も早くぶつかり合う。
 シャチクモスキートの腕からは、その手首のあたりから、本来の蚊であれば口から生えきストロー機能の針が伸びている。それを腕力で振り下ろし、シルバーXは腕をクロスに束ねて頭上で受ける。ただ受けるというよりは、始めから押し返すようなつもりで、敵身体に接触してもなお走る速度を緩めようとしない勢いで重心をかけている。
 相手に押され続ける形で、シャチクモスキートは後ろ走りをする羽目になっていた。構わずサラセニードルを目指す戦闘員と後ろ走りとですれ違い、シルバーXの背中よりも何メートルも後方で、多数対一人の立ち回りは始まっていく。
 シャチクモスキートを壁際まで追い詰めて、羽が背中と壁のサンドイッチになるように導けば、シルバーXはこの間合いから一方的に連打を叩き込むことができる。
 しかし、みすみすその通りになってくれる敵ではない。シャチクモスキートは羽音を立て、風圧を起こし、軽くであるがシルバーXの身体を押し返した。
 吹き飛ばす真似まではできないが、重心移動の勢いを弱めたり、走力を落とすだけで十分なのだ。シャチクモスキートは平手でシルバーXの胸を押し返し、その押すような打撃に煽られシルバーXは何歩も後退。
 このまま攻めの流れを掴むため、シャチクモスキートは針の腕を執拗に振り回した。
 当然、適当に振り回すだけの動きであるはずかない。
 例えば右を狙えば左へ避ける。シャチクモスキートはシルバーXの歩方に注意を払いつつ、相手の動きをだんだんコントロールしようと意識していた。何発かわされようと、最終的に当てればいいのであり、誘導の意味合いを帯びた攻撃こそが回数を占めているのだ。
 シルバーXにとって苦しいのは、単純にリーチの長い攻撃を避け続けている部分である。素手の間合いに入らせないため、踏み込もうとする動きを抑えるための一閃が繰り返され、しかも風圧利用のテクニックまで使ってくる。二重の踏み込み阻害により、あれからパンチを当てうる範囲自体に入っていない。
 ならば自分もカードを使えば、武器さえあればリーチの延長可能だが、それには腰のカードホルダーからカードを取り出し、エックスブレスに差し込む必要がある。そんな時間を得るためには、そうする隙を作る工夫から始めなくてはならないのだ。
 では今回はどうするか。
 シルバーXはこの避けるばかりに忙しい状態で、それでも腰のカードに手を伸ばす。
「そうはさせるか!」
 カードを手に取らせないため、シャチクモスキートはそこを狙って突きを繰り出す。それこそがシルバーXの狙い。シャチクモスキートが出してしまったのは、ただカードを使わせないため、動作を阻止するための攻撃なのだ。
 右腕による左腰狙い。
 シャチクモスキートの視点からするなら、完全な正面突き――。
 ほとんどカードホルダーに狙いを絞ったも同然の攻撃は、突きというだけでも範囲は小さく、回避にかかる移動量でいえばかなり少ない。まして狙われる部位がわかって対応できないわけがなく、シルバーXは相手の手首へと左手を差し出して、沿えてから押すように起動を逸らし、さらには勢いまで利用して軸足回転に繋げていた。
 シルバーXが狙うは肩――回し蹴りだ。
 握力で相手の手首を固定しながら、回転の力を込めたキックで打ちのめす。足に跳ね返る衝撃から、皮膚感覚で与えたダメージを把握した。肩とその周辺の筋肉繊維を断裂させ、骨は罅の広がりのあまりに粉砕骨折にまで至っている。
 怪人の体力なら、なおも右腕を使えるが、パフォーマンスは大幅に低下するのだ。
 さて、ここで勝負は決められる。
「銀式少林拳――」
 クラゲリアンを追い詰めた際に使った技。
 手首を掴んだ状態から、後ろへの踏み込みで相手を引き寄せ、相手が果てるその時まで、無限に殴り続ける――相果無限突きを繰り出せるチャンスが来た。
 だが、シルバーXの技を把握していたのか。それとも、勝負感の良さやシルバーXの動きから、自分がこれからどんな目に遭うのかを悟ったのか。
 シャチクモスキートは地面を蹴り、羽に寄る飛行力まで使った勢いで、抱きつかんばかりの上半身全体を使った体当たりをかましてきた。
 後ろに踏み込むというタイミングと一致しで、だから踏ん張ることも押し退けることもできはしない。密着距離においてパンチも出せない。
 否、これでいい。
「――反転! 翼返し!」
 相果無限突きの弱点は、引き寄せる際に体当たりで抱きつかれれば、そのまま押し倒されるしかないことだ。
 ならば、そうなった時の対策は何か。
 そもそも、相果無限突きとはそれ自体を決めることばかりでなく、相手に危機感を与えて動きを誘導する目的まで含んでのものである。無限殴りが出来ればよし、出来ずとも別の技に繋げればよし。破らせるためにある技といってもいい。
 初めから投げ技を受けていたかのように、シャチクモスキートの肉体は投げ出され、半回転の形で背中を打つ。
 反転翼返しは相手が翼や羽を持つことを前提として、飛行の勢いを受け止める。技巧的に受け流して行う返し技なのだ。
 この時、シルバーXはもう既に空中にいた。
 宙返り運動で遠心力をつけ、落下速も乗せた膝落としが、シャチクモスキートの鳩尾に深々と埋め込まれる。
「ぐほぉぁあ!」
 胃液の逆流。シャチクモスキートにしか存在しない怪人だけの体液も口から噴き出て、しかしシルバーXは人の汚い汁では顔色一つ変えることなく、トドメを刺そうと利き手の左拳を固めていた。
 だが唐突に、このまま自分が勝つのだという確信は揺るがされ、突風じみた強烈な気配が背筋に迫る。
 トドメを刺すことをやめ、そんなことよりシルバーXは地面を蹴り、体操選手のように綺麗な側転運動によって飛び退いていた。本当にキレ良く一瞬で、思わず残像を残して見える回転であったが、それだけ速く避けてなお、脇腹からの出血でコスチュームは汚れていた。
 針の突き刺す一撃から、深手こそ逃れるも、繊維の裂けた隙間からはまるで切り傷のような皮膚の切れ目が露出している。出血量の分だけ布地に赤色は広がり続け、傷周りは完全にぬかるみを帯びていた。
「二人目だと?」
 いつからいたのかもわからない、もう一人のシャチクモスキートがそこにはいた。
「おのれ三人目もいるぞ!」
 サラセニードルの声が届くに、またもシルバーXは後ろからの一撃に反応していた。受け払いで外へ押し出し、攻撃を防ぐどころかカウンターをかますつもりでさえいた。
 向こうもシルバーXの動きを見たのだろう。
 受けの動きも読んだのだろう。
 ガードに使う腕こそが狙われて、シルバーXの左腕には吸血針が突き立てられていた。
 ――まずい!
 針の先端は皮膚を破って、肉の中心にまで到達している。体液を一気に吸い上げ、シルバーXをただの吸い殻と変えるつもりだ。シャチクモスキートにとって人間の中身を吸い尽くすなど、ジュースを一瞬で飲み干すことと変わらないはず。
 たった一秒迷ったり、動揺で判断が遅れただけで、どれほど取られることになるものか。
 ものの一瞬のあいだにシルバーXは、広い視野でシャチクモスキートの足を捉え、後ろに逃げれば踏み込みで追って来ることを悟っていた。追うことで針先の位置を維持してくる――引けば死ぬ。
 貫通してしまった方が、中身を吸われることはない。
 シルバーXは逆に前へと踏み込んだ。
 肘から手首を繋ぐ骨の名前は、尺骨と橈骨だったか。二本のあいだを通り抜け、皮膚から突き出た針の表面は、ぬるりとした赤味を帯びていた。
 刺さったものを固定してしまうつもりで筋肉を緊張させ、さらに右手で針を掴んだシルバーXは、分身モスキートの針をへし折った。
 
 シャチクモスキートの能力。
 それは蚊を操り、何千何億を集合させることにより、分身を作り出すことである。オリジナルと同一の形状に固まると、たちまち表面を変質させて、やがては本体と区別のつかない外見や能力を得られるのだ。
 
     ††
 
 サラセニードルの視界は狭く、そして戦闘員は撮影やアトラクションにおける振り付け通りに動くわけではない。本当に殺しにかかってくる相手を前にして、光希としては視界に頼ることはほとんどなく、気配だけを頼りに動き回った。
 駆けるようにテーブルに乗りあがり、テーブルからテーブルへ乗り移り、同じテーブルへ乗り移ってくる戦闘員をまるで列に並んだ順番のように一人ずつ打ちのめす。
 隼乃製の着ぐるみだ。一晩で準備したらしい。
 あくまでも着ぐるみである以上、本物のサラセニードルが持つ能力は使えない。とはいえ腕から発達している一本のムチには威力があり、戦闘員を殴打する武器として十分に使える。耐久性も優れており、どう動いても破損の心配はないらしい。
「イー!」「ギー!」
 掛け声を上げて襲い来る敵を相手に、光希はイメージだけで立ち回る。
 そもそも、撮影やイベントのアクションからして、客席からはどう見えるか、カメラには自分がどう映るかの意識をする。そんなイメージ能力が培われている上で、しかも競技ではなく実戦志向の武術を学んでいるとあったなら、いっそ穴ポチ程度の視界など無くても良かった。
 右腕がムチと一体であるつもりで全身にしなりをつけ、迫り来る戦闘員が射程距離に入る順から打ち付けて、さらには足に巻きつけ引っ張るように転ばせる。
「どうだ! この俺の威力を見たか!」
 怪人が戦闘員を蹂躪していた。
 長テーブルという障害物を利用して、絶えず飛び移り続けたり、向こう側に飛び降りて、移動に移動を繰り返す戦い方は、敵人数の動きをコントロールするためである。走るか乗りあがるかして、向こうに回り込む移動に手間を取らせて、固まりを分解しようというわけである。
 追いついてくるたびに鞭打ちを喰らわせて、たとえその隙に別の戦闘員が迫っても、両脚を即座にキックに使う準備が――つまり多方向からの攻めに応じる準備がある。
 そもそも、たった数人だった。
 戦闘員を仕留めきるのに時間はかからず、手伝い無しに自分一人では脱ぎにくい着ぐるみを脱ぐために、光希は背中に手を伸ばす。チャックを探すことに手間取り、下げることにも、マスクを外すことにも苦戦しながら、それでも最速で脱ぎ捨てた。
 皮でも脱ぎ捨てたようにして、着ぐるみがだらりと床に落ちると、白ジャケットにジーパンに指貫グローブを決めたいつもの光希が姿を現す。
 シルバーXが苦戦していた。
 分身術によって三対一に持ち込まれ、分身モスキート一人の針は折っているが、脇腹と左腕の負傷でかすかに動きが落ちている。加えて風圧テクニックも、その都度その都度、三箇所から使われるのだ。
 人数戦を利用して、風で背中を押してやったり、横からよろめかせようともして、執拗に執拗にテンポを狂わせている。バランスを崩して隙を作ろうとしている。さらには分身が分身の背中に風を当て、重心移動の背中を押した加速テクニックまで見せているのだ。
 シルバーXは即座の方向転換を繰り返し、三人分の攻撃をどうにか防ぎ続けているが、受け損ねた針先が少しずつ衣服を引っ掻く。頬に切り傷の線が走って、首にも足にも赤く細い線が増え続ける。蹴りが当たって膝が弱り、肩口にパンチが当たって腕まで弱る。
 時間がかかるというだけで、このまま削られ続ければ、シルバーXの死は時間の問題。
 当然、それをただ見ている光希ではない。
「合掌!」
 パン!
 と、光希は両手を合わせ、同時にまぶたを深く閉ざした。
 それは精神を統一して、無とした心を大気と一体にしていくためだ。まるで水の表面に少しの波紋も起こすことなく静寂を保つかのように、やがて魂が気に沈み、どこかへ溶けていくかのように……。
 そこには欠片の雑念もありはしない。
 どこまでも『無』なのであり、今日のご飯は何にしよう、体が痒い、さっきは何だか――そういったありとあらゆる心のつぶやきさえ存在しない。何かの景色を浮かべることも、好きな音楽の脳内再生のように音が鳴ることもなく、完全なる無の境地に光希はいた。
 もしも人が眠るとき、夢を見ないで意識だけが沈んだらどうであろう。
 さらにはもし、この宇宙に一つの星も存在せず、命というものもなく、何かの『存在』という概念までもがありはしない。究極にして完全なる『無』があったならどうであろう。光希の精神的境地は今、そんな常人には知りえないステージに立っているのだ。
 そして、光希は目を開く。
 ――見えた!
 階段のようにテーブルへ駆け上がり、そのテーブルを足場として――。
「トォウ!」
 光希は飛ぶ。
 生身の人間が飛びうる高さの限り、宙高く舞い上がる身体は、宙返り運動によってくるりと回転を帯びながら、勢いをつけたキックでシャチクモスキートに迫っていく。もちろん生身で怪人の肉体を狙いはしない。
 光希のキックが貫くのは、その背中にある脆そうな羽の方だ。
 そう、風圧テクニックを使うため、今まさに左右に伸びて展開され、狙いやすい的と化している羽である。
 怪人の一部である以上、やはり丈夫かもしれない。あくまでも人間の足ではどうにもならないものかもしれない。しかし最も脆そうで、実際の虫で考えても蚊やハエやトンボの羽は、甲虫の持つ硬い部分や鳥類のものより壊れやすい。
 だったら、もしかしたら――。
 若干の期待と希望的観測を込めた判断で、靴の足裏に蹴り抜いた感触を得ながら、その向こう側に着地した光希はシルバーXに向かって声高に叫ぶ。
「こいつがオリジナルだ!」
 
     ††
 
「シルバァー! 爆弾ッ、パァーンチ!」
 
 左拳にエネルギーを宿して、力強く叩き込む一撃は、拳の先から一種のパワーを流し込んでやるイメージだ。それは相手の体内で爆弾となり、爆発によって内部をかき回す。無論イメージの話であるが、さながらハンドミキサーで細かくかき混ぜてしまったように、叩いた部位の器官が目も当てられない状態と化していく。
 これにより、シルバーXが壊したのは念派送信器官だ。
 いかに虫や動物の能力を取り込むとはいえ、やはり怪人は怪人のルールで動く。
 シャチクモスキートの場合、体内にある器官の力でテェフェル製の蚊に指令を送り、その意のままに操作していた。特別な知性を持たない蚊でも敵味方の区別をつけて、仲間は刺さないように出来るといった寸法だ。
 それを破壊した今、もはや蚊のコントロールは不可能だ。
 蚊が集合することによって生まれた分身も、絶えずコントロールしていたものだ。能力を維持できないのはもちろん、仮に維持したところでただの棒立ち人形だ。
 分身二体は黒い霧のように霧散して、周囲を煩い羽音と砂嵐にも似た景色で埋め尽くす。
「馬鹿め……!」
 シャチクモスキートは両手で腹を抱えてうずくまる。
「直前に最終命令を出した! シルバーXを殺せとな!」
 複雑な命令を残すことはできなかったのだろう。
 しかし――。
 何千何万、下手をすれば何億かもしれない蚊の大群は、圧倒的な密度でもってシルバーX一人に殺到していく。砂嵐が薄れるにつれ、シルバーXの体表は蚊という蚊によってコーティングされていき、人間を蚊で包めばどうなるかの手本がそこに完成した。
 黒い人形にしか見えはしない。
 だが少しでも目を近づければ、それが蚊の一匹一匹によって構成されているのが見て取れる。
 生理的嫌悪感を呼び起こすには十分なものとなっていた。
 
「シルバー! 大放電!」
 
 一瞬、光った。
 隙間などありはしない密度の少しでも薄い部分から、点々とした輝きがいたるところに走って次には、突如として全ての蚊が床にボロボロと落ちていく。勝手に剥がれていくようにして、砂が崩れる光景にも似て、床に死体が溜まっていく。
 シルバーXには放電能力が備わっている。
 全ての蚊が丸ごと集まるということは、逆に残らずまとめて始末可能ということだ。
 シルバーXは飛び上がる。
 空中でフォームを整え、足裏に『X』を貼り付けたシルバー十字キックを放つ。
 羽が若干の変形を帯びていなければ、まだしも避ける余地はあっただろう。風圧テクニックの応用で、移動の加速も考えられた。
 肩がやられていなければ、投げ技で背中を打っていなければ、中身を壊されていなければ、あらゆる要素が積み重、シャチクモスキートには一つの余裕も残されてはいなかった。
 
「シルバー! 十字キィーック!」
 
 爆死四散。
 こうして一社がテェフェルから解放された。
 
     ††
 
 お姉ちゃんが帰って来た。
 隼乃から家の電話に連絡があり、シャチクモスキートは倒したと、ウィルスも除去したと伝えられ、中村美智子は堪らずに飛び出した。
 すると、ちょうど玄関のすぐ前までりつ子は来ていた。
「お姉ちゃん!」
 すぐに抱きついた。
 すると、りつ子は無事にいつもの優しい顔で、心配でたまらずにいた美智子のことを抱き止めて、本当に優しく包んでくれた。
 温かくて、柔らかくて、美智子のよく知るお姉ちゃんが間違いなく戻って来たことを実感するため、これでもかというほど強く頭を埋めて行く。
「お姉ちゃん! 本当に心配だったんだからね!」
「ごめんね? 美智子。お姉ちゃん、なんだか今まで自分が自分じゃなくなってたみたい」
 顔を上げると、りつ子は力なく苦笑していた。
「本当だよ。本当におかしかったんだからね?」
「そうね。おかしな夢まで見ていた気がするわ。なんだか、変なコスプレだけど、でも格好いい女の子に助けられたみたいな」
 そう聞いて美智子は連鎖的に思い出す。
 最初に必死に逃げた時、まず光希が助けてくれて、続けてシルバーXが現れて、そのあとでシルバーXの関係者らしい一ノ瀬隼乃が、美智子の境遇に深い共感を示してくれた。
 あの人のはずなのだ。
 お姉ちゃんを助けてくれて、ここまで連れて来てくれたのは、きっとみんな一ノ瀬隼乃だ。
「お姉ちゃん! 一ノ瀬隼乃って人に会わなかった?」
 必死の形相で思わず掴みかかってしまって、あまりの勢いに若干りつ子は戸惑い引いてしまう。
「ええ? っと、そうねぇ……」
「会ったの!?」
「名前はわからないけど、黒いジャケットの子がここまで送ってくれたのよね」
「その人! どこ! いまどこ!?」
 もう決して足を向けて眠れない。なんとしてもお礼の一つも返さなければ、そうしないわけにはいかない恩人の中の大恩人だ。
「たぶんまだうちの前に」
 そこまで耳に入っただけで、美智子は既に駆け出していた。
 しかし、同時にバイクエンジンの音も聞こえた。
 ――行っちゃう!
 隼乃の顔を一目見ようと、死に物狂いで走り抜き、バイクに跨がる黒ジャケットの後ろ姿が、やっとのことで視界に入る。
 だけど、スピードと共に薔薇のマークがついた背中は小さくなって
「一ノ瀬さぁぁぁん!」
 お願い、戻って来て。
 祈りの叫びは届くことなく、無情なまでに隼乃の背中は、美智子の視力では見えない、遠い遠い距離にまで行ってしまう。
 そんな、どうして行っちゃうの?
 これからも戦い続けるから?
 だったら、せめてこれだけでも――。

「ありがとぉぉぉう! 一ノ瀬さぁぁぁん! ありがとうございまぁぁぁす!」
 
     ††
 
 尊い姉妹の笑顔を取り戻した一ノ瀬隼乃は、その胸に確かに美智子の言葉を受け止める。
 また誰かの笑顔を守るため――。
 テェフェルとの戦いに決意を新たにするのであった。