第6話「強敵登場!その名はサターナ」part-B



 南条光希はおよそ何日かぶりに隼乃がいない朝を迎えた。
 朝四時に起きて、少しの時間を勉強に使い、アクション団体の施設である稽古場へ行く。日課であるトレーニングを終えてそのまま登校という、光希にとっては慣れきった、普通の感覚からすればハードなスケジュールをこなしている。
 そして、県内でもトップの偏差値を誇る私立高校は、偏差値の分だけ校則は緩い。
 私服での登下校が可能なため、スカートが苦手というか、運動に的さない服装を好まない光希は、ありがたくズボン類を履いている。似たような白のジャケットも増やし、お気に入りの指貫グローブを買い足し、ジーパンも増やし、学校でも私生活でも固定のファッションで過ごすようになっていた。
 普通の女の子のように、色んな可愛い服を着たいというのがあまりないのだ。
 だいたい、毎朝のごとく服選びに時間をかけたくない。
 私服高校自体、いくら服装が自由でも、結局は選ぶのが面倒になり、制服を着ている層が一定数いる。光希はまさにその一人で、日々のスケジュールということもあり、服選びの時間を費やすのはどうしても勿体なく感じられた。
 さらに言えば、女子の制服はスカートだ。
 体を動かすことが大好きで、本当はいつだって暴れていたい性分からしてみれば、動きにくい服装ほど窮屈に感じられるものはない。スカートでバク転や宙返りができるだろうか。キックだってやりにくい。しかも背が高くて中性的な自分には、女の子らしい格好なんて似合うまいとの気持ちもあり、とにかくスカートに関しては苦手意識が強かった。
 制服で学校を選ぶ女子もいる。
 光希の場合、スカートを穿かなくてもいい学校に入りたかったところもある。
 バイク通学が許されるのも、スケジュールの都合上ありがたい。龍黒県は東が都会でも西が田舎で、交通網は東に偏りが激しく、バスや電車の本数からしても、バイクがあるならそちらの方が便利となる。
 ついでに言えば、バイクアクションにも挑戦したい。日頃から乗り慣れておきたい気持ちも大いにある。
 もろもろの事情を考えてのバイク通学といえばそうなのだ。
 免許持ちが珍しいため、入学間もない時期はバイクをネタにクラスの色んな人達から話しかけられ、そうなると外向的で明るい部類の光希としては、一週間も経たないうちに友達を増やしていった。
 自分の話をするばかりでなく、積極的に話題を出して相手に喋らせ、例えば出身中学だの部活だのを聞き出し、自分の学校にも同じ部活の奴がいただの、その空手や柔道の経験があるのと話し込み、あっという間に仲良くなる。
 もうクラス全員と数回ずつ以上は話をした。
 クラスメイトの名前どころか、他クラスの名前も多く覚えた。
 コミュニケーション能力があり、社交性が人より高めとあらば、色んな種類の人間を見る機会は増えるというもの。
 いわゆるコミュ障に比べ、人間という生き物に関して詳しくなるのも自然なことで、お喋り好きと口下手の見分けなど顔を見るだけで十分だ。中にはクラス全員の名前を覚えきることもなく、何と光希の顔と名前まで覚えないまま中学を卒業生した人もいた。
 もしも隼乃に当たり前の高校生活があったなら、やはり覚えきることなく卒業するタイプだろう。
 ……隼乃は大丈夫だろうか。
 と、ふと思う。
 今頃、ヒルモグラを倒し終わってくれていればいいのだが。
 
 隼乃にも言いはしたが、あのサターナという少女には見覚えがある。
 
 人違いかと思いもした。
 しかし、あの少女の顔は思ったとおり、インターネットに残った記録で確認可能で、見覚えがあって当然だった。
 ――会ったことがあるのだから。
 それどころか、格闘技の試合をした相手だ。
 
     ††
 
 一ノ瀬隼乃に、シルバーXに会いたい。
 弟がそんなことを言い出すのも無理はない。テェフェルの怪人に一度拐われ、助けてもらう体験などしては、シルバーXのことを好きになるなという方が無理だろう。
 男の子とはいえ四歳で、性欲に目覚める年頃にはまだ遠い、パンツやおっぱいに興味があるかないかの、まだまだ無邪気な幼稚園児だ。
 茂の気持ちは純粋に大好きなお姉さんと一緒に遊びたいものなのだろう。幼稚園で人気のある先生に子供が集まることと同じかもしれない。
 その煽りを受けるのは、主にというか黒井川百合子ただ一人である。
 まだサンタクロースなんて信じるくせに、妙なところで知恵がまわって、そもそも一ノ瀬隼乃のことも知らない両親の前ではシルバーXの話題を出さない。同じ秘密を共有する姉の百合子だけが、会いたい会いたいとせがまれる羽目になるのだ。
 そんなことを言われても、百合子は隼乃の番号やアドレスを知っているわけではない。
 だいたい、少し前までは、こっそりクレヨンで描くシルバーXの絵だって隠していて、話題も出して来なかったのに、いきなりのことだった。
「ねえ、おねえちゃん……」
 躊躇いと緊張と、気恥ずかしさが大いに篭った表情で、茂は言ってきたのだ。
「あのおねえさんにはもう会えないの?」
 照れなのか、最初はぼかした。
 お姉さんと言われても、茂は光希にもなついていたはずだから、どちらのことか本当にわからずに、百合子は確認するように聞き返した。
「ひょっとして、シルバーX?」
 すると、茂は恥ずかしそうに頷いた。
 女の人に会いたいなんて言い出すのは、少々くすぐったくて照れ臭そうなあたりは、四歳だろうと立派な男の子だ。
 さすがに、わかった。
 本当は会いたくてたまらなくて、恥ずかしいから切り出せなかった話を、ついに思い切って切り出してきたわけである。
「わからないわ。忙しいでしょうから……」
 その時はそう濁した。
 テェフェルの脅威を体験して、それと戦う隼乃がどんな日常を過ごしているかと考えると、とてもでないが気軽に会いたいなどとは頼めない。
 しかし、日を跨いでまた聞かれ、だんだんと頻度も増せば、いよいよ百合子も切実な願いに追い詰められる。
 本当に困った話といえた。
 ヒーロー番組に出た俳優が、子供に変身をせがまれた時の話をしているバラエティ番組を見たことあるが、茂の場合は実物を見てしまっている。
 一ノ瀬隼乃は存在する人物だから、会えるかもしれないとわかっている。
 ともなれば、本当に本当に切実な眼差しをして、茂は百合子に訴えるのだ。
 もうたまらない。
 こうなったら頼んでみよう。
 追い詰められた挙げ句に心も折れ、隼乃が光希の家にいることを知っている百合子は、こうなったら隣のクラスに足を運んで頼むことにした。
 声をかけようにも人気者で、教室を覗けば朝から光希は女子に囲まれ、他の休み時間にも誰かしらがべったりしている。さほど内気でも引っ込み思案でもない百合子だが、さすがに壁を感じて身を引いた。
 放課後になっても女子と話している様子に、もう仕方がないので声をかけやすいタイミングを伺うことは諦め、やや思いきって教室から出てくる光希の前に出る。
 
「あのー……光希さん……」
「あれ? どうしたの? 百合子さん」
 
 意外そうな顔をしている光希の両脇には、ファンなのだろう女子が何人もまとわりついている。百合子という新しい女の登場に、警戒のようなムッとしたような、少しばかり不穏な注意の視線が向く。
 まあ、わからなくもない。
 中性的な顔立ちは、首から上だけを見ていれば、女なのか美男子なのかわからない、ボーイッシュな美人と言えるルックスだ。おまけに運動神経もかなりのもので、ちっとも惹かれない方がおかしいくらいだ。
 ただの普通のクラスメイトでなく、実はアイドルか俳優をやっている人物が、なんと自分達と同じ学校に通っている――というくらいの特別感がある。
 などと、例えが大袈裟だろうか。
 映画出演経験があるのだから、あながち間違ってはいまい。
「ちょっとお願いが……」
「わかった。外で話そうか」
 シルバーXが絡む話をこんな廊下の真ん中ではやりにくいと、鋭く察してくれたらしい。
 友達と別れた光希に連れられ、バイクを停めた駐車場まで出てきた百合子は、光希がバイク通学である証拠をまじまじと見つめていた。
「あの、うちの弟が、どうしても隼乃さんに会いたいって言うんです」
 想いを告げ、口にしてみて自覚する。
 やっぱり、自分だって隼乃に会いたいのだ。
「んー。どうかなー……」
 光希は難しそうな顔をしていた。
「難しいでしょうか……」
「昨日からまだ帰ってないんだ。無事だといいけど、会わせようにも帰って来てるかわからないからさ」
 苦笑しながら言ってみせる光希だが、百合子は心配でならなくなった。
 光希だってそうだろう。尋ねた途端に遠くを見て、その目は明らかに隼乃を気にしていた。
「……あっ」
 おもむろにポケットに手を突っ込み、スマートフォンを取り出す光希は、マナーモードの振動でメールに気づいたらしい。タッチ操作を行うと、少しばかり曇った光希の顔は、すぐに晴れやかなものへと変わる。
「もう帰って来るってさ」
「本当ですか……?」
「ただ私の予定がね。このあとは色々あるから、明日でいいかな」
「はい! もちろんです!」
 会えるんだ。
 そう思うと嬉しくなり、楽しみになり、なんだか顔が緩んでしまう。しかも光希と連絡先の交換まで行って、百合子にとってかなりお得な一日となった。
 
     ††
 
 白銀のマシン――エックストライカーが駆け抜ける。
 そして、それを追跡するテェフェルオートバイ部隊。
 
 あれからすぐにヒルモグラの追跡を行って、テェフェル基地の一つを突き止め、潜入から戦闘までを行った一ノ瀬隼乃は、あまり言いたくはないのだが、深刻な重傷を負わされ、マシンの性能を頼って何とか逃げ出してきた最中だ。
 さすがの速度で、追っ手も来ない。
 しかし、視界がぼやけ、激しい苦痛で今にも意識が途切れそうな状態で、今度はバイクの運転を続けていることが辛すぎた。
 きっと歩くことさえ辛い。
 
 ヒルモグラを追う直前、光希は言っていた。
 
 昨日まで遡り――。
「待った! さっきのあの子、やっぱり見たことがある!」
 どうも見覚えがあるような気がしていた様子の光希は、間違いなく知っていると思い出し、すぐにでもバイクに跨る隼乃を呼び止めたのだ。
「前に父さんが出るアクション映画の撮影についてって、たまたま現地で開催された格闘技大会に私は出た。そして、決勝戦で当たった相手が……」
 実のところ、隼乃はそれを知っていた。
「ラニャ・ユアン。テェフェルの資料で拉致候補リストに名前があった」
「……知っているの?」
「テェフェルがこの世界に到着してから、すぐに改造手術を行う候補リストの作成は行われていた。もっとも、いかに組織力が高いとはいえ、世界中の人材を把握するには時間がいる。光希が狙われた頃の時点では、ラニャ・ユアンの適合体質までは不明だった。つまり光希と同等の人材がいるとは判明していなかった」
「けど、今では改造人間?」
「そういうことだ」
 初めから裏切る予定で、計画的にテェフェルの一員となり、この世界への到着後にすぐさま脱走を行った隼乃だが、直前に頭に叩き込んでいた資料の数々から、その後の調査で手に入れたリストなどから、ローズブレスで変身可能な適合者リストも手に入った。
 単に適合係数を満たし、変身が可能なだけなら、光希や百合子以外にもいくらかいた。
 ただし、小さい頃から武術稽古を積み重ね、体操競技の経験やスタント訓練を重ねた身体能力の持ち主で、難関高校に合格するほど頭も良い人材など、南条光希をおいて他に存在しないわけだった。
 ならばラニャ・ユアンとて、改造手術の素体としては優良であり、いずれ怪人となって日本に現れる可能性は大いにあった。それが隼乃の前に顔を見せてきたということは、それだけ仮面プリンセス対策が進んでいることに他ならない。
 だから、知る必要があった。
 テェフェルはどんな対シルバーX作戦を講じていて、どう戦うつもりでいるか。
「……今すぐ行くの? 今行かないと間に合わない?」
 真剣な眼差しの光希。
「そうでなければチャンスを逃がす。これ以上、長話の時間もない」
「わかった。気をつけてね」
 見送る光希の視線を背に、隼乃はエックストライカーの速度を上げ、すぐに周辺テェフェル基地の捜索を行った。
 サターナとヒルモグラの逃げ込んだ先を、そして見つけた。
 見つけた結果、このザマだ。
 サターナの邪神少林拳に痛めつけられ、潜入した基地から何ら持ち出すことは叶わず、むざむざ逃げて帰っている。
 おびただしい数の打撃を浴びた。
 幾箇所にわたって骨はひび割れ、全身の十箇所以上の皮膚も、切れるというより破裂に近い形で血を噴き出す。おびただしい出血が下着からジャケットにかけてぬかるみを与え、風呂にでも浸した直後のように靴下まで濡れている。
 文字通りの血だるまで、雑巾のように服から血を搾れるに違いない。
 頭蓋骨にもヒビがあり、割れた額や頬の切り傷から赤い滝が流れている。顔面を綺麗に赤くペイントしたも同然で、それが首やうなじにまで及んでおり、息をするだけでさえ内側にある傷に響いて苦痛を伴う。
 エックストライカーの速度から突き刺さる、猛烈な風さえ激痛だ。
 肩の回転速度が低下している。足腰のパフォーマンスが悪い。出血過多で意識も朦朧としてしまっている。内臓にも裂傷がある。とてもでないが、戦闘員とも戦いたくない状態で、だから追っ手を背にして止まることはできない。
「イー!」
「ケイィィ!」
 何台ものバイクが、テェフェルオートバイ部隊の面々が、エックストライカーに追いつこうと背後に迫り、片手に握る剣で、サーベルで、隼乃に斬りかかろうと構えている。とうとう横合いに追いつく一人が、サイドから車間を縮め、その剣を振り上げていた。
 一閃をかわすため、隼乃は一瞬で速度を落とす。
 エックストライカーの性能は、さもスイッチを瞬間的に切り替えるようにして、自在な速度変換によって時速六百キロから十キロ以下へと変えられる。
 超速に追いつくための速度で今まで走り続けた戦闘員達は、エックストライカーの速度が急に落ちたことにより、思いがけずして隼乃を追い抜いてしまっていく。みるみるうちに、隼乃の目から戦闘員の背中が全て小さく見えるほど、いとも簡単に距離が生まれて、目論み通りにオートバイ部隊全員の背後を同時に確保した。
 とにかく、まとめて一掃したかった。
 
「――シルバァァァ! ブレェェイク!」
 
 ハンドル付近にある操作ボタンの一つを押し、ウィリー走行の形で前輪を高らかに持ち上げた隼乃は、やはり一瞬の速度変換で時速千キロ以上を出し――。
 その次の一瞬にある光景が、オートバイ部隊全員のバイクが衝撃に煽られ転倒して、それぞれ爆炎を上げていき、爆発に飲まれた戦闘員が悲鳴と共に散っていくものだった。
 そして、その光景を作り上げた隼乃は、この一連のアクションで身体にかかった負担に呻き、気絶で眠りかけたところでハっと気づいて、危うく転倒しかけたバイクの角度を持ち直し、本当にやっとの思いで逃げ延びていた。
 あれだけ開いていた距離を、ものの一秒で縮めるばかりか、追いつき追い越し、その追い抜く形のすれ違いでもろとも大破させたのだ。
 仮面プリンセスの変身にも、怪人の肉体にも、このエックストライカーにさえ、この世界には存在しない新エネルギーが循環している。
 隼乃が行ったボタン操作は、内部エネルギーを外部に放出させるものだ。
 合わせて速度を上昇すれば、風圧によって生まれるエネルギー波を車体全体が纏っているような形になる。それは隕石が宇宙から大気圏内に突入する際、空気との摩擦で炎に包まれている映像と酷似していた。
 ただ違うのは、炎というより青色の何かに包まれ、それは車体のサイズを遥かに越えた広範囲に及び、道路の道幅にぴったりと合わさっていた。仮にも道路上を走る戦闘員は、背中からエネルギーの中へと飲み込まれ、エックストライカーが通り過ぎたと同時に、それぞれの転倒やスリップでもろとも倒れ、ガソリン爆発があげる煙と共に散ったのだ。
 やっとの思いで、それから隼乃は光希の家まで辿り着く。
 
     ††
 
「は、隼乃!」
 
 家の外からバイクエンジンの音を聞き、きっと隼乃と思って飛び出す光希は、今にも死にかけの姿に青ざめた。
「光……希…………」
 行き倒れのようにして、光希の顔を見るなり力尽き、ばったりと倒れていく隼乃へと、死に物狂いといっても過言でない勢いで駆け寄った。
 腕に隼乃を受け止める。
 黒いジャケットがまんべんなくぬかるみを帯びるほど、常人ならばとっくに死んでいる出血量で、光希の白ジャケットまで赤色に濡れていく。自分の服が汚れることなどお構いなく、そんなことを気にしよう思う余裕や発想さえも無しに、とにかく光希は隼乃を抱え、お姫様抱っこの形で運び込む。
 だらりとした腕の指先から垂れる血で、ぽつりぽつりと、廊下に跡が残っていくことさえ、光希にとっては意識外だ。
 隼乃が帰ってきたら、一緒に何を食べようか。宿題を済ませておき、少しはのんびりと過ごす時間が捻出できるはずなので、出来れば隼乃と姉妹みたいな仲良しな時間を過ごしたい。楽しみの数々を頭に浮かべてやまなかったが、そんなものは遠くへ吹き飛び、隼乃が心配だというそれ以外のものは何もない。
 怪我なら今までもしていた。
 そして、改造人間だから一日かそこいらで治ってきた。
 シャチクモスキートとの戦いで、腕に針が貫通したあれでさえ、光希の心配を他所に本人はケロっとしていて、さすがに普通の人間ではないことを――言っては悪いが、まともな人間なら隼乃の再生力に対して「化け物」の一言を放ちかねないと、光希とて少しは感じた。
 ただそれ以上に、隼乃が抱く平和への想い。
 既に世界征服が達成しているという故郷の世界と、光希の住むこの世界が同じようなことにはなって欲しくないと、出会った子供を守ろうとする想いを垣間見て、化け物というよりそちらの印象の方が光希には強かった。
 だいたい、隼乃がどんな存在であれ、そもそも光希がテェフェルに捕まりかけたところを救ってくれた恩人だ。
 恩人に対して、恩を仇で返す真似など絶対にしたくない。
 色んな特撮作品に関わってきて、守ったはずの人々から石を投げられるようなストーリーも目にしており、隼乃に対して同じ真似は絶対に駄目だと、改造人間だっただ何だという、普通の人間にはないような熱さが光希にはある。
 それはやはり、父親が不当に叩かれた過去の記憶……。
 見た目は人間、心も人間。
 だったら、化け物であろうと誰であろうと、それはもう人間のうちでいいではないか。
「隼乃! 私はどうすればいい!?」
 どこまでも、隼乃への想いしかない。
 こんな重態に陥った『人間』が目の前にいて、衝撃を受けた光希には、これほどの怪我人をどうすればいいのかという一種の焦燥と、何としても無事に治って欲しい想い。隼乃にまつわる感情以外は沸いても来ない。
 隼乃、隼乃、隼乃……!
「病院? 救急車?」
 必死に、切実に呼びかける。
「びょ……いんは……無意……味……だ…………」
「病院は無意味。改造人間だから?」
「さい……せい……り……よ………………」
「再生力? 本当に治る?」
 隼乃の声は、瀕死のあまりに声として成立していない。肺を動かすのも辛そうな顔から、本当に辛うじて搾り出している、小さな小さな息遣いでしかない喋り声。光希はそれを聞き取るために、隼乃の顔に耳を近づけ、隼乃の言葉をその都度確認していくのだった。
 そうやって辛抱強く、自分は何をしてやればいいのかと聞き出した。
「縫……って…………」
「縫う? 私は素人だよ?」
 だが、それを構わないという。
 本人の指示に従い、苦労して服を脱がせた血塗れの裸体は、グロテスクと言うしかない状態だった。
 生きていることさえ不思議である。
 自分が医者でも何でもなく、それに人の体に針を突き刺す心理的な抵抗は大いにあり、かつて家庭科の授業で使った裁縫針を用意するも、光希の指は震えていた。
 改造人間だから衛生環境が悪くても大丈夫、雑菌は気にしたくていい。
 その理屈はわかる。
 普通の人間にはない新臓器を持ち、そこから新細胞も作られて、人間なら誰でも持つ常在菌の力も常人を上回る。不衛生な環境で傷口を開いてさえ、大した影響を受けないほど、強靭な免疫を持つらしいことは聞いている。
 いくら頭でわかっていても、針を刺し込むことへの抵抗が薄れるわけではない。医療行為というより、これは外傷を与える行為だという気持ちが、心理的にはどうしても先に立つ。
 まず、何枚も何枚ものタオルで血を拭いて、隼乃の身体を可能なだけ綺麗にすると、白から赤へと変わったタオルがおぞましく積み重なる。
 人として当然の躊躇いを抑え込み、光希も光希で歯を食い縛って、隼乃の指示する部位に針の先端を押し当てた。
 手芸用の糸を使うなど、医療としては非常識もいいところの、本当の本当に相手が改造人間だから許される方法だ。時間をかけて何箇所も縫い合わせ、広がった傷口を少しでも小さく閉じる努力をした。
 全身に包帯を巻いたらもう、赤いミイラの出来上がりだ。
 血の色が自分のジャケットに移っていたことなど、こうして一区切りつき、隼乃が眠りについたその後で、やっとのことで気にして着替える。
 それから、改めて寝顔を見た。
 包帯越しで表情などわからない、寝ていてもどこか苦しそうに聞こえる息遣いが、もう本当に痛ましくて、そう思うと隼乃の傍を離れることが出来なくなった。
 ソファをベッド代わりにした隼乃の隣。
 その日、光希は床で寝た。
 
     ††
 
 黒井川百合子を呼ぶことに迷いがあった。
 約束では今日、百合子はバスで弟を連れてきて、光希の家から一番近いバス停に降り、それを光希が迎えに行く話になっている。
 この状態で人と会うなど、さすがに隼乃も嫌がるだろう。
 縫い跡だらけ、包帯の姿を見せても、百合子と茂を驚かせることになるだろう。
 様々な常識的判断がよぎり、仕方がなく電話で断りを入れようかと考えてながら、光希は朝食の準備を進めていた。
 毎朝のスケジュールでは、早朝から何かしらトレーニングをやるのだが、隼乃の傍を離れる気にもなれずに、室内で筋力トレーニングを行うだけで済ませた。朝のシャワーを浴びて着替えてから、キッチンでの調理をやるに、目玉焼きの加減を見つつも、頭の中ではどういう言葉を使って断ろうかと、百合子と話をするためのシミュレーションが始まっていた。
 出来上がった食事を皿に盛り付け、サラダも合わせてテーブルに並べると、さては美味しい香りで起きたのだろうか。
「ご飯か……!」
 死にかけの重傷者が、そんな言葉を上げて飛び起きた。
 包帯のどこにも白い部分が残っていない、吸い込んだ血が乾燥しきった、赤いミイラでしかないものが動くと、ちょっとした軽い恐怖に顔が引き攣る。
「包帯かえて! 着替えてから!」
「冷めるだろう!」
「大丈夫だから! さっさと服着る!」
「……ちっ!」
 不満そうな顔の隼乃は、とりあえずソファから立ち上がり、その瞬間に苦痛で引き攣り膝を折る。
「大丈夫?」
 光希はすぐに駆け寄った。
「表面は治った。包帯はもういらないが……」
 内部の損傷がまだ激しいということなのだろう。
 昨日までの隼乃の裸体は、本他王に見るに耐えない傷口を大量にこしらえていた。それをスプラッター映画で視聴するならいざ知らず、生の血の香りも副えて目の前にあったなど、我ながらよくぞ針を突き刺す真似が出来たと思う。
 たった一晩のうちに、傷跡さえも残ってはいなかった。
 包帯を外すのを手伝うと、筋肉繊維の剥き出していた箇所でさえ、肌質のよい美白肌が広がるのみで、あまりの綺麗さに昨日のことが夢に思える。それでも、試しに肩をツンとつつくと、痛いからと文句を言われた。
「しかし隼乃さーん。綺麗な形をしていますねぇ?」
「黙れセクハラめ」
 隼乃は怒ったように恥ずかしそうに胸を隠し、下の方も手の平でぴったりと覆ってしまう。
「まあまあ、昨日は全部脱がせたんだし」
「昨日と今は違う!」
「はいはい。しょうがない」
 用意していた着替えを手渡すと、隼乃はすぐに着替え始めた。
 隼乃の下着は光希が買った。
 身長が同じで、体格的にも同じサイズの下着で問題ない。何なら下着の共有も出来ないことはなかったが、さすがに隼乃用のものを買い足してある。
 ジーパンを履き、アルファベットの『X』をプリントしたシャツを着た隼乃は、お気に入りの黒いジャケットまで着込んだことでやっと落ち着き、さっそくのようにテーブルの椅子については食べ始める。
 目玉焼きを飲み物か何かのように皿から飲み干す。パンを丸ごと口に押し込んでは、数秒としないあいだにそれも飲み込む。ベーコン入りのレタスサラダを食べるのも、当然のように十秒以内で済ませてしまった。
「早食い大会じゃないんだからさぁ……」
「いいか光希。改造人間の再生力を持ってすれば、傷の回復はこの通りというわけだ」
「うん。さすがは改造人間」
「広がりすぎた傷口を縫ったおかげで、その部分の修復も早まった。縫わなければまだ表面の傷は残っていたことだろう」
「本当に家庭科用だけどね」
 というより、医療用の針と糸など、一般家庭にあるわけがない。
「だがもう一つ。とても大切なことがある」
「それは?」
 
「食事だ!」
 
 要するにもっと食べたいか。
「ほんとそうだね。うん、その通りだ」
 日頃から体を動かし、カロリーの消費を繰り返している光希である。当然のように普通の女子より大食いで、そんな光希には何ら返す言葉も思いつかない。まさしく、その通りだと同意するより他はなかった。
 
 しかし、ここまで治ったなら……。
 やっぱり、百合子と茂を招いてみよう。
 
     ††
 
 龍黒県は西が田舎で東が都会と、左右ではっきりと分かれているのが特徴だが、中央地域は少しばかり両者が入り混じる。
 西側にあるバス停は、過疎化した地方のバスよりもマシな本数とはいえ、交通網の発達した都会とは比べ物にならない。東から西へ行くバスも少なく、一本逃せば次のバスが遅いため、時間に関していつも以上に気を使った。
 黒井川百合子は茂を連れてバスに乗り、窓の向こうの景色が、都会のものから田んぼや森のものへと移り変わるまで十分程度。
 待ち合わせの時間通りにバス停に到着すると、すぐに光希が出迎えた。
「光希さん! どうもおひさしぶりです!」
「お、いい挨拶だ。元気そうだね? 茂くん」
「光希さんにも会いたかったです!」
 無邪気な茂は百合子の手を素早く離れ、早速のように光希の方へしがみつく。自分より光希の方に懐いているのを見せ付けられて、複雑な気持ちは否定できない。
 だがまあ、仮にもヒーロー役者でもある。
 ヒーローに会わせてあげているとでも考えれば、さして気に病むこともないはずだ。
「隼乃はね。昨日の戦いで疲れているんだ。だから、あんまりたくさんは遊べない。私達の言うことをよーく聞くようにね」
「はい!」
 元気な返事で返す茂。
 茂と光希で手を繋ぎ、そんな光希の隣を歩き、百合子は光希の家に向かった。