第6話「強敵登場!その名はサターナ」part-C



 一ノ瀬隼乃は芝生の庭に静かに立つ。
 その心にはサターナから受けた技を浮かべていた。
 
 いかに相手を苦しめ、肉体を破壊して、殺戮の喜びを満たさんとするか。
 それこそが邪神少林拳の極意であった。
 サターナが見せた技の数々は、力の方向変換などに限らず、さらにそこからシルバーXの手足に取り付き、積極的に間接を壊そうとしてきたのだ。
 お互いスポーツをやっているわけではない。
 命のやり取りに置いて、より手際よく相手を殺すための合理性を突き詰めるのは、むしろ当然の話に過ぎない。間接を狙い、目を潰し、内臓に衝撃を与えるための型くらい、隼乃にもいくらでもある。
 では何が違う?
 テェフェル基地に侵入してから、サターナが出迎えてきた一連の流れを思い出す。
 
 あら? この場所を突き止めちゃったのね?
 
 それが嬉しいことのような顔をして、サターナはやはり人間体のまま構えを取り、シルバーXはシルバーXの姿で挑んでいった。
 力の方向変換を警戒して、サタンブレイドで斬りかかったのは、あの技が身体接触によって成り立つからだ。鋭い刃に触れるわけにはいくまい。剣術であれば自然と封殺できるであろう計算で、剣による立ち回りを行った。
 しかし、怪我をしても構わない顔をして、サターナはさも平然と刃に接触。剣に対しても方向変換を行って、手の平や腕に深い切り傷を負いながら、骨まで達する深手をいくつ増やしても笑顔でいた。
 
 肉を切らせて骨を断つって言うでしょう?
 別に少しくらい怪我をしても、そのたびにそれ以上のダメージを与えればいいじゃない。
 
 いたるところに切れ込みを増やし続けた結果、おびただしい数の皮膚の裂け目から、滝のような流血で指先から滴を落とす。一つ一つの傷口が骨にまで切れ目を入れ、筋肉の断裂が増えるあまりに、いかに改造人間の腕とていつ使い物にならなくなってもおかしくない。
 
 あはっ、あはは!
 
 サターナはそれでなお笑顔だった。
 時間さえあれば回復するなど、決してそういう問題などではない。あくまでも常人よりも回復力が高いだけ。全治数ヶ月のものが数日か一日で治るとしても、戦いの最中に腕が使えなくなれば結局は死を招く。
 そんなことは恐れもせず、ただただ受けたダメージよりも大きなダメージを与えればいい。
 文字通りに筋肉を切らせて、それ以上のダメージを与えてくることを、サターナは本当に実行してきた。
 力の方向が変わるとき、腕の角度が変わると共に姿勢にも影響が出て、サターナはそれを計算に加えた攻めを徹底してきた。呼吸法による波を乗せた拳で内部に衝撃を流し込み、切れ味さえ帯びたチョップで皮膚を切り裂き、幾度となく間接部位を殴る蹴るして、シルバーXの動きを低下させ続けた。
 筋肉繊維が打撃によって断裂して、内臓にも裂傷が及び、骨にヒビが入るたび、サターナはテンションをあげていた。
 
 あはは! ははははは!
 
 嬉々とした表情の話だけではない。
 もっと身体の軽やかな動きに関しても、見るからにキレが増し続けていき、サターナの技量は徐々に上昇していた。
 きっと精神的な高揚に合わせる形で、だんだん実力を発揮したのだろう。
 シルバーXが負った傷や痛みを見るたびに、相手が死に近づけば近づくほど戦うことが楽しくなり、楽しいと思う気持ちに合わせて実力が解放される。それこそが邪神少林拳の極意であり、殺人の娯楽を突き詰めた拳法なのだと、肌で感じたものだった。
 皮膚も筋肉も神経も、ほとんどがボロボロになった腕を使って、サターナは本当に笑顔でシルバーXのことを殴り続けた。
 もはや傷だらけのあまり、腕自身がパンチの衝撃に耐えられず、打撃を放った分だけ余計に腕が弱るほどの状態に落ちてなお、むしろそれも嬉しいことの一部のようにスピードもパワーも上げていき、隼乃にはそれが恐ろしくてたまらなかった。
 ひょっとして、究極的には……。
 
 相手を殺せさえすれば、相打ちで自分が死んでも構わないのでは?
 
 そう思えてならなかった。
 自分自身の身体が死に近づいていることでさえ、サターナは見るからに楽しんでいた。
 ……異常すぎた。
 どんな控え目な言葉で表現しようと思っても、サターナのことは狂人と言うしかない。しかもその狂った精神こそ、肉体の動きと密接に絡みついており、邪神少林拳を邪神少林拳たらしめているのだとわかってからは、本当に恐ろしくてたまらなくなった。
 自分を殺そうとしてくる者との戦いに関して、隼乃は前々から覚悟をしていた。
 だから、今までの怪人に対しても、確かに恐怖自体はあった。ありはしても、冷静に自己を制して勝ち続けてきた。
 サターナの前では、いずれ制していられなくなる予感があった。
 感情が恐怖によって沸騰して、どんなにフタをしても溢れる泡が吹き零れ、いつかはどこかにフタを飛ばしてしまいそうな――恐怖に呑まれそうな予感がした時、自分の負った負傷のことも考えて、合理的にも撤退やむなしと判断してから、すぐにエックストライカーを出しては壁に突っ込み突き破り、せっかく潜入した基地からも逃げ出したというわけだった。
 サターナが取った動きを細かに思い出し、ゆっくりと目を閉じる隼乃は、イメージの中で相手と立ち会う。
 向こうから打ち込んで来たとして、どう返すか――こちらも拳をぶつけよう。いや、それは読まれてもう片方の手が接触しくる――方向変換! 腕の角度を変えられ、どうでもいい方向にパンチの勢いを放ってしまい、そのために姿勢や重心にも影響が出る。それがサターナの計算なのであり、次の一手で組み付かれ、間接が一箇所やられる。
 駄目だ。
 自分が勝つ想定が出来ない。
 ならばサターナのパンチはあえて受け、顔をぶたれても蹴り返し、膝にダメージを与えてやる流れから、自分のリズムに巻き込んで――それも駄目だ。基地侵入時の戦闘では、実は完全下段の足首狙い、地面すれすれの回し蹴りを放ってもみて、それさえもサターナはわざわざしゃがんでまで手を触れて、やはりキックの方向を思わぬところへ変換された。
 足の力の方向を変えられるのが最もまずい。
 足腰に来る影響が強すぎて、取り返しのつかないまでに姿勢を崩される。立て直す暇など与えられずに、追撃という追撃の限りを受け、そのまま勝負を決められかねない。
 どうすればいい?
 あの力の方向変換と、どれだけ痛めつけても嬉々とした表情を決して変えない、その精神性にこそ極意のある邪神少林拳は恐ろしすぎる。
 イメージトレーニングの中で、頭の中に浮かべたサターナを前に戦うも、サターナを倒しうる立ち回りが浮いて来ない。
 駄目なのか?
 銀式少林拳では邪神少林拳には勝てないのか?
 どんなダメージを与えても笑顔になり、笑顔になるほど加速して、与えたダメージが意味を成さない。最後にはこちらが追い詰められる一方となる化け物に、一体どう対処すればいいのだろう。
 隼乃は深刻に悩んでいた。
 キングマンモスにだって勝てる気がしていない。そのキングマンモスがさっさと出てきてシルバーXを倒す真似をしないのは、燃費の悪い体質で戦える時間が短いためだ。
 サターナは違う。
 一度も怪人体にならずしてあの強さだ。
 どうすれば、どうすれば、どうすれば――。
 
 そんな隼乃の焦りを煽るかのようにして、黒井川百合子と茂の声が聞こえてきた。
 
 改造人間の聴力は、当然のように常人を越えている。
 まだ随分な距離にいた百合子と、それを連れ歩く光希の喋り声など、ここにいたって隼乃には聞き取れた。
「光希。なんのつもりだ……」
 よりにもよって、あの百合子を連れてくるなんて。
 自分は真面目に悩んでいるというのに、骨のひび割れや筋肉の裂傷を残した肉体の痛みを思い出す。手足を激しく稼動するたび、それ以前に歩くだけでさえ、いちいち激痛が走って思うような立ち回りが出来やしない。
 ストレスにストレスが重なり、朝まで良かった隼乃の機嫌は完全に悪くなった。
 
     ††
 
 黒井川百合子には隼乃に対する想いがあった。
 隼乃こそが命の恩人だったことを知りもせず、自分の思い込みだけで、一度は心ない言葉を叫んでしまった。隼乃のこと傷つけて、それなのに隼乃は自分と弟を助けてくれた。罪悪感と感謝の気持ちが重なり合い、どうにかして隼乃の力になってやりたい気持ちとなって、それは膨らむ。
 それで隼乃に会ったら、まずは何から話そうか。
 そうだ。光希は隼乃の協力者だ。
 よし、自分も協力者になるんだと、もっとはっきり、隼乃に向かって申し出て、何か出来ることをやらせてもらおう。そのための話をして、とにかく自分は隼乃の役に立ちたいんだという気持ちを伝えよう。
 そう心に決めながら、やがて光希の家に辿り着く。
 森や畑を背景に、塀に囲まれた一軒家は、車こそないが車を置いておけるガレージがあり、そこにバイクが置かれている。
 南条の苗字を記した表札に、インターフォンと郵便受け。
 門塀の向こう側が玄関だ。
 
「……光希。何のつもりだ」
「百合子さんにも、何か手伝ってもらおうかなーって」
 
 明らかに百合子のことを歓迎しない、誰が見ても不機嫌とわかる表情で、腕組みをして玄関に背中を預けて寄りかかり、段差の高い位置から、隼乃は百合子を見下ろしていた。
「手伝う?」
「まだ万全じゃないでしょ? ちゃんと休んでないと」
「百合子さんがここに来る必要はない!」
「私の家だよ」
 光希の一言で隼乃は口を閉ざす。
 簡単に理解できた。
 ここは光希の家がから、自分の友達を連れてこようが、そんなことは光希の勝手であるはずだと、これはそう繋がる意味の言葉だ。
 そんな光希は隼乃の前へと歩みより、ポンと軽く、指貫グローブの手を肩に乗せていた。
「隼乃には何も言ってなかったし、色々と余計だと思うかもしれないけど、あいつに勝てないとまずいんだろうなって、それくらいの想像はつく」
 光希の言わんとする意味が百合子にはわからない。
 百合子が知らない、二人だけにわかっている事情の話なのだ。
「だったら、なおさら帰っていただきたい」
「私が余計なことをしたお詫びに、あいつに勝つための特訓を私がつけてあげる」
「……光希が?」
「言ったでしょ? あいつは会ったことがある。そして、その大会で私は優勝した。邪神少林拳は必ず何とかなる」
「…………」
 無言の隼乃。
 その表情は見るからに不満そうで、唇が不機嫌な形に尖っている。何かもっと、文句を言いたくてたまらなそうな眼差しが、百合子にも向けられる。
 唯一、そんな不機嫌っぷりを直接にぶつけてはいない相手は茂だけだ。
 しかし、四歳児の茂としては、楽しみに来てみればこの空気で、どこか気まずそうな顔をして、やがてすっかり下ばかりを向いてしまう。
「茂くんがね。どうしても会いたかったんだってさ」
「……ふん」
「あいつには勝てる。だから、別にいいでしょ?」
 すると、隼乃はプイっと顔を背け、さっさと玄関の中へと戻ってしまう。
 大丈夫なのだろうか。
 さすがに帰った方が良いのだろうかと、来てはまずかったんじゃないかと思っていると、それでも光希は手招きしてくる。それに寄せられ、百合子も茂も最終的には玄関で靴を脱ぎ、光希の家に上がらせてもらうのだった。
 
     ††
 
 大好きなお姉ちゃんに会いたい。
 幼い年齢の無邪気さから、どこか隼乃になついた黒井川茂は、今日という日を楽しみに待っていた。会えるという、それ自体が茂にとってはテーマパークへ出かけるほどのイベントに匹敵して、本当に楽しみすぎて眠れなかった。
 ところが、あの歓迎する気のない態度。
 すべての機嫌の悪さがもっぱら百合子に向いていたのは、四歳児の茂であれど何となく空気で察した。どうして隼乃はあんな顔をしたのか。心当たりといえば、前に百合子は隼乃を人殺し呼ばわりしことを覚えている。
 今はもう誤解はない。
 だから許してあげて。
 そう思う気持ちを言葉に出来ず、茂は何故だか躊躇っている。大人であれば、言おうにも言い出せない理由くらい、自分で自分の気持ちが理解できることだろう。
 百合子だって反省しているから、もう怒らないであげて欲しいなど、それはどこか説教めいている。一緒に遊んだり、楽しい時間を過ごしたい相手に対する言葉としては、どうしても微妙で言い出しにくい。
 自分の心理を言語化して、理論的に理解するなど、四歳児の語彙と頭脳的では難しすぎる。自分が何をどう思っているのか、伝えたくても伝えられない。
 結果としてそこにあるのは、隼乃のことは嫌いでもなんでもない、なのに何かを言いたくなる。何故、自分は隼乃に対してこうも何か思うのだろう――という、それさえも茂の心の中では、はっきりとした言葉の形を成していない。ぼんやりとしたモヤモヤとしてだけ胸に漂い、何となく気まずい気分になる。
「おじゃまします」
 きちんとした言葉と共に、靴まで揃えて上がる利口な茂は、さっさと廊下の奥へと消えてしまう隼乃の背中を、気まずくて悲しい気持ちで見送る。
「さて、茂くん」
 そんな茂の目の前に、しっかりとしゃがんで姿勢を低め、茂の背丈に視線の高さを合わせた光希の顔があった。
「百合子さんが隼乃に言った言葉を覚えてる?」
「……うん」
 それを言われると、頷くしかない。
「だけど、隼乃は二人を助けてくれたね」
「うん」
「実はね、また別の悪いヤツと戦って、隼乃は少し疲れてるんだ。本当に大変な思いをしたばかりだから、人に優しくする余裕が、今はないのかもしれないね」
 光希の指貫グローブを嵌めた手の平が、ポンっと、茂の頭に乗せられる。
「しかし、茂くんにはそんな隼乃のためにできることがある」
 そうして光希が提案するのは、絵を描いてあげるということだった。
 もちろん、言葉で伝えてもいい。
 だけど今回は、たっぷりと気持ちを込めた絵を描いて、隼乃に渡してあげようということだ。
「あの時はありがとう。そんな気持ちをしっかり込めてね。そうしたら、隼乃の機嫌もきっとよくなる。大丈夫だよ」
 聞かされた言葉を丸ごと信じて、光希の部屋へと連れられる。昔のクレヨンがまだ残っていたらしいものと、画用紙も一緒に持ってきてくれて、茂はすぐにグレーを手に取り、グレーが銀色のつもりで描き始めた。
 何の写真資料もなく、記憶だけを頼り人間の骨格に適った線を描き込んでいる。シルバーXの腕には赤いラインがあったはずと、赤いクレヨンを手にぐちゃぐちゃと、さらに別の色も取り、しだいに絵としての姿が現れてきた。
 所詮は幼稚園児の画力ではある。
 しかし、それでも綺麗な線を取ろうとして、形を整えたがった痕跡に、思い出せない部分は想像で補う茂の努力が、そこには十分に浮かんでいた。
 優れた芸術は光って見える。
 もちろん錯覚であり、それくらい優れたものに対して、そういう感じ方をする人間もいるという、ただそれだけの話に過ぎない。
 茂の絵にも、感じられるべき何かがあった。
 間違っても値段がついてどこかに売れるわけではない。だか確かに、茂はその手に存分に気持ちを宿していた。シルバーXに向けた想いは強く滲み出ていた。
「よーし、茂くん。とっても上手に描けたね」
「これでよろこんでもらえる?」
「もちろんだとも! さぁてぇ、それじゃあね。隼乃はこれからも、悪い奴らと戦うために頑張るから、是非応援してあげて欲しい。ちゃんと『この前は助けてくれてありがとう』と、それから『これからも頑張って下さい』って、感謝と励ましの言葉を忘れないこと」
「うん!」
「わかったね? 約束したよ?」
 光希が小指を差し出すと、茂も小指を出して結び合た。
 
     ††
 
 ただのイメージトレーニングで身体に負荷がかかったらしい。
 常人と改造人間では冗談でなく基準が違う。そうそうオーバーワークにならない。練習のやりすぎで体を壊すということが、まずもって難しすぎた。
 そんな隼乃の肉体が、今は激しい運動を拒んでいる。
 自分の肉体がかつてない状態にあることは、こんな体で怪人とやりあう羽目になったらどうなるだろうと、潜在的な不安を呼び覚ます。早く治したい焦りに、邪神少林拳のことにも悩む隼乃は、だから百合子のことなど相手にしている余裕はなかった。
「……何故来た」
 昨日のようにソファをベッドの代わりにして、さっきまでの負荷から身体を休める隼乃は、百合子の顔など見もしない。
「どうしても、気になって……」
 百合子はまるで悪いことをして謝りに来た子供のように、すっかり深く俯いていた。
 ああ、どうせあのことだ。
「まだ気にしていたのか」
 あの程度のことで傷ついたのは、そもそも精神が不安定だったからと自覚している。隼乃に言わせれば、その後反省しているらしい百合子より、不安定な自分に活を入れ、背中を押してくれた光希の方が、ずっと隼乃の心を打った。
 百合子と茂は一度救って、言ってみればもう用事は済んでいる。
 隼乃にとって、所詮はその程度の相手だ。
 それに……。
「私は力になりたいんです! 私にできることならなんでもします!」
 百合子は強く訴えかけてきた。
「迷惑だ!」
 そして隼乃は一言で吐き捨てた。
「でも……!」
「あなたに何ができる!」
「でも光希さんは……」
「光希は自分で戦闘員を倒せる。怪人からも逃げ切れる。あなたとは違う! あなたに光希と同じことができるのか!」
「でも……」
 そこまで言って、力強く食い下がろうとしていた百合子は、さすがに弱って肩がぶらりと脱力する。完全には諦めていない様子で、まだ何かを言い出そうと、頭の中では言葉を捻り、口をモゴモゴさせているのがわかる。
 そんな百合子の姿を見るに、隼乃はソファから立ち上がり、がっしりと両手で百合子の肩を掴んだ。
「えっ……?」
 射抜くような鋭い視線を送ると、きょとんとしたような驚いたような、どこか赤らんだ顔で百合子も隼乃を見つめ返す。目と目が重なり合うことで、まるで時間が止まる魔法のように、二人のあいだでゆっくりと、本当にゆっくりと時間が流れる。
 
「言ったはずだ! あなたは何も悪くない! 何も気にすることはないんだ!」
 
 止まってしまった時間の中で、隼乃は静かに願いを口にして、真剣な眼差しで百合子に言って聞かせていた。
「もしあなたに何かあったら、私は何のためにあなたを助けた」
 それが当たり前の気持ちだった。
 この手で救った命は、その後もずっと無事であり続けて欲しい。あまりにも当然で、自然な感情なのだった。
 それを聞いて百合子は、どこか力が抜けてしまったように、くらりと足をフラつかせ、後ろにあった椅子の上へと、倒れ気味のように座っていた。
 そんな百合子の向こうにある、テーブルに置かれたリモコンを取るために、つかつかと不躾なほど近くまで歩み寄り、ばん、と音を立ててテーブルに手をついた。
「は、隼乃さん……」
 息がかかるほどの目の前に、ボーイッシュな隼乃の顔は迫っていた。
「その気持ちだけで十分なんだ」
 さっと、隼乃は離れていき、今頃は流れていてもおかしくないニュースを確認するべく、テレビチャンネルを臨時報道に合わせるのだった。
 
     ††

 幸せな家族の日常があった。
 そう遠くはない会社に通い、定時を少しだけ過ぎても夜八時までには家に着く。父の帰りを母が出迎え、七歳の男の子と三人で晩御飯を食べるのだ。
 当たり前に続いていた平凡な生活サイクルは、何らの前触れもなく、さして特別な理由さえなく、たまたま美味しそうな食糧がそこにいたから破られた。
 
 怪物は床の下から現れる。
 
 床が噴火のように盛り上がり、めりめりと、みしみしと、板の裂けゆく音を立て始めた。何枚もの細長い板を繋ぎ合わせて構成された木製の床が、床下から上に出ようと、力ずくで変形させ、モグラにも猫科の猛獣にも似た生物が顔を出す。
 
 ヒルモグラが地中から一般家庭のど真ん中に姿を見せた。
 
 一家団欒を打ち破る床の破壊への驚きと、家庭内に見たことも聞いたこともない生物が現れた恐怖。それが成人男性と変わらない全長で、誰が見ても獰猛だとわかる牙を剥き出した表情は、家族全員を絶叫させるには十分だった。
 男の子の上げる悲鳴は、まともな神経の人間なら、聞くだけで戦慄する。無惨なほど泣きじゃくり、喉が裂けるほどの大声だった。
 母が本能で子を庇い、父が椅子で立ち向かう。
 二人とも、決して勇敢などではない。我が子を思う気持ちから、そのような条件反射に至っているに過ぎない。
 椅子で殴ってどうなるはずもなく、足の方がへし折れる。
 腕力で突き飛ばし、骨のひび割れる父親は、壁に背中と頭をぶつけて気を失う。
 そして、ヒルモグラが食糧への眼差しを向け、母親は半狂乱に息子を抱き締める。
 かき爪が母の背中を引き裂くと、皮膚を掬い取るように抉られて、深すぎるひっかき傷の奥では、爪のかかった骨まで欠損してしまった。
 生死などわからない。
 いずれにしろ、抱き締める腕の力は緩み、もう子供を守ろうとする者はいない。
 ショックで逃げることもできない男の子は――呑み込まれた。迫るヒルモグラの口腔が傘を広げたように大きく開き、子供一人を飲み込むには十分なサイズとなって、頭から足の先まで吸引力によって体内に引きずり込む。
 そうしてヒルモグラは、自分の掘った穴の中へと戻っていく。
 
 次は田舎の山だった。
 
 その県は都会のような施設に乏しく、カラオケやゲームセンターもなければ、映画館や遊園地へ行くのにも、一時間に一本の電車で遠出しなければならない。いささか退屈に思える土地でも、子供達は自分達だけの遊び場を発見して、地元の小学生男子は山を縄張りとしていた。
 川で魚を釣り、夏にはクワガタやカブトムシを探して捕まえる。
 ともすれば昔の古い遊びに思えるが、そういう遊びが可能な環境の中で、ゲーム機だけではバリエーションに乏しく、まだ早いからという親の方針で携帯電話も持たせてもらっていない子供となれば、限られた選択肢の中で自然と山遊びに行き着いた。
 そんな山の探索ごっこをして、頂上を目指していた少年達の前にである。
 
 ヒルモグラはやはり地中から、まるでそこに火薬でも埋まっていたように土を巻き上げ、子供達の前に這い出て見せた。
 
 その場にいた男の子の全員が悲鳴を上げた。
 
 凶悪な眼差しで獲物を見て、牙をずらりと並べている。牙と牙のあいだに唾液の糸がねっとりと引き、獰猛な唸り声を上げ、どんなに控え目な言葉で表現しても、食料を前にした肉食動物としか形容できない。
 人間の原始的恐怖を煽るには十分すぎた。
 全員がパニックを起こし、慌てふためき背中を向け、転げ回り、転ぶ痛みも関係なく無我夢中で逃げていく。 
 ヒルモグラにとって、逃げる子供に追いつくことは造作もない。
 たった一人、運の悪かった子供だけがうつ伏せに押し倒され、その子供は半狂乱になって友達の背中に手を伸ばす。届くはずのない距離にある背中は、ただただ遠くなっていくばかり、子供はヒルモグラの体内へと引きずり込まれた。
 
 小学校、校舎一階。
 
 家庭科の授業で調理実習をやっていた小学六年生の集まりは、もちろん自分達の平和が破られることを想像もしていない。変わり映えの平凡な日常こそ当たり前で、それぞれ充実している子供もいれば、同じ毎日の繰り返しを退屈と考えている子供もいる。
 しかし、これだけは共通していた。
 諸外国の紛争地帯のような危険もなければ、スラム街のような治安でもない。平和であることが当然すぎて、自分達がいかに安全な生活をしているか、当たり前に生きるあまりに自覚すらしていないことである。
 だからこそ、平和を破る怪物の登場は、クラス全員に加えて教師でさえもパニックに陥れ、悲鳴や泣き声や絶望の顔をふんだんに詰め込んだ、恐慌状態の調理室風景を作り出すには十分過ぎた。
 絶叫まみれの中から一人、女の子がヒルモグラに捕まった。
 抱きつくように捕らわれて、呑み込まれ、粘液のぬるりとした狭い肉壁の体内に閉じ込められた女の子は、狂ったようにもがいて暴れる。小学生女子の力でいくら抵抗したところで、ヒルモグラには関係すらない。あとは掘り返された穴の底へと共に消えていくだけだった。
 
 そして――
 
 何人も何人も、およそ十人以上の年齢のバラバラの子供が、鉄格子の檻の中へと閉じ込められていた。
 
 ヒルモグラが地中を掘り進めた地下道の、さらに小部屋として掘られたスペースに、子供達を詰め込む牢屋の設置がされている。
 幼稚園から小学校高学年まで、それぞれの年齢層の子供が泣き喚き、あるいは自分はこのままどうなるのだろうと不安に陥り、諦めと絶望で下を向いている子しかいない。少しでも希望を抱き、前向きに考えている子供など、そこには一人としていなかった。
 
     ††
 
 巨大不明生物の出現と、それによる子供の誘拐。ならびに生物が移動を行う際に起こる床や路面などの損壊。
 化け物に子供を攫われた証言の人々が、こぞって警察に通報をおこない、それがマスコミに伝わって、やがて未確認生物が実際に活動していることが判明するまで、昨夜から今日の午前中にかけてまでの時間で十分らしかった。
 ヒルモグラの動きを見るに隼乃は焦燥に煽られる。
 早く倒さなければ、一体どれだけの人間が……。
 しかし、ヒルモグラを追えばまたサターナが待っている。ただでさえ強いのに、まだ一度も怪人体を見せていないサターナ含め、下手をすれば二対一の状況に陥るだろう。
 今のままでは勝ち目はない。
 万全ではない意味でも、邪神少林拳の強さにおいても。
 茂の遊び相手になってやる余裕はないのだ。
 だからこそ、本当に思う。
 何の断りもなく連れて来て、本当に光希は何のつもりだ。テェフェルの脅威を理解して、それでもなお隼乃に居場所を与えてくれている恩人に、あまりとやかく言いたくないが、悩んでいる最中に余計なことを――と、そう思わずにはいられない。
 
「隼乃。動ける?」
 
 その光希が、さっきまで二階に連れていた茂を伴い、このリビングまで降りて来ていた。
「これでも骨にヒビが残った箇所はかなりある。筋肉と神経も痛んだままだ」
 糸はあれから自分で抜き、なので表面上の見た目だけなら、本当に無傷に見えるが。断裂した筋肉繊維がまだ完全には繋がりきっていない部分も、それと同じ状態の神経も数多い。
「けど、今日中にも出かけそうな顔してない?」
「ヒルモグラは放置できない。日本中をパニックに陥れることの可能な一種の兵器だ」
 よって、潰せるチャンスとあらば潰したい。
 大きな獲物のエサに釣られてヒルモグラを追跡すれば、そこにはサターナが待っているという話になる。せめて力の方向変換だけでも攻略できればいいが、向こうも向こうで技をより上手く決める工夫ある立ち回りを行ってくる。
「隼乃、私と稽古をしよう」
「改造人間である私とか」
 ただの人間を本気で殴れば、変身無しでも相手は簡単に即死する。
 ありがたい話だが、それでは光希が危ない。
「隼乃は万全じゃない。そんな隼乃に私が負けることはない。まして、あの程度の技を敗れないくらいじゃね」
「何ぃ?」
 さも自分なら勝てた言い草にはむっとした。
「はっきり言うよ。私が改造人間なら、サターナぐらい簡単に倒す」
 その時、光希の手には一枚のプリント用紙があることに気がついた。パソコンから印刷したらしい紙が、テーブルの上に置かれると、隼乃の目に飛び込むのは、タイで開催された格闘技大会にて日本人が優勝したという内容だった。
 
 優勝者は日本の中学生少女――南条光希。
 現地の強豪、ラニャ・ユアンを破る。
 
 優勝メダルを持つ光希の、中学生当時の写真が掲載され、この記事を書いた記者なりの文章で大会内容について語られている。
「基礎を極め、基礎の極意を、合理性を真に理解した者こそが、基礎を崩して応用に移る。邪神少林拳なんて技はそもそも存在しない。使い手は世界中でもサターナ一人だけのはず」
「我流を極めた末に生まれたオリジナル。そんなことは私にもわかっている」
「原型は残っていない。だけど、何ていうかな。一度戦った私だからわかる。基礎の香りぐらいは残っていた」
「だから邪神少林拳を見切れるというつもりか」
「え? そうだけど?」
 それくらい出来て当然とばかりの、あまりにもあっさりとした断言だった。おちゃらけた顔で呆れたように肩まで竦め、いかにも煽りたい表情を向けて来て、正直に言って腹が立つ。
「ま、嫌ならいいんだよ。私だって怪我人を潰したいわけじゃない。あんまり痛めつけて稽古の意味がなくなったら、時間だけ無駄になってお終いだものね」
 そして、あからさまな挑発だった。
「ふん。怪我をするのは光希の方だぞ」
 いくら光希が強くとも、普通の人間には違いない。その光希に言われるだけ、黙って終わるのも面白くない。
「お? じゃあ決まりだね。表、出ようか」
「望むところだ」
 改造人間一ノ瀬隼乃。
 その力を存分に知らしめてくれよう。
 
     ††
 
 黒井川茂はどこかワクワクしていた。
 二人が戦いを始めようとする空気には、決して険悪なものはなく、茂の中での理解で言うなら、およそこういうことになる。
 喧嘩は喧嘩でも、仲が悪くてやる喧嘩ではない。
 むしろ、仲が良いからじゃれ合っていると言うべき、喧嘩よりも戦いごっこが近いくらいの、そういう雰囲気に見えたのだ。
 それに、光希は茂に言ってくれた。
「茂くん。これから外に出ようか。私と隼乃はこれからちょっと特訓をやるけど、そのあとで一緒に遊んであげるからね?」
 真相を言えば、隼乃の反応が想像以上に悪いから、自分が代わりに茂の相手をして、今のところ不満な顔をさせずに乗り切っている。肝心の隼乃とは、お喋りも何も出来ていないが、会えただけでも嬉しい茂は、現状でも素直に喜んでいた。
 茂の良い子ぶりは幸か不幸か。
 ともかく、家の周辺にはドッヂボールくらいなら出来そうな空き地があり、光希と隼乃はそこで対峙していた。
 観戦者となった茂と百合子は、少し離れたところからそれを見る。
 
 ――空気が変わった。
 
 まるでこの世界のどこかに大気の質感を切り替えるスイッチが存在して、ぶわっと、急に書き換えられてしまったように、ピリピリと肌が痺れる。空気全体が微弱な静電気を帯びて、絶えず弾けて来る感覚を、茂は二人の凄味として理解していた。
 すごい、二人はすごい!
 四歳児の反応を言語化しても、難しい言葉は出てこない。
 しかし、二人は物凄い強いから、そのせいで何となく空気が変わる。それは二人が身体的な構えを取る前から、およそ心が戦闘に集中を始めた途端からだと、特に理由がなくとも茂は察していた。
「トォウ!」
 隼乃の拳が鋭く放たれ、指貫グローブとジャケットの黒色からなる、漆黒の一撃は光希の顔面へ向かっていた。
 
 ところが隼乃のパンチは関係のない方向を殴っていた。
 
 隼乃の動きに素早く応じ、自分の腕を絡みつかせたかと思えば、光希は一体どのような技を使ったわけなのだろう。急にぐいっと、腕の方向が変化して、光希の顔から横にずらして、およそ当たるはずのない角度を殴っていたのだ。
「なんだと!?」
 その後も隼乃は次々と、手早い数で打撃を放つも、ことごとくに光希の腕が触れていき、ぐいっとした勢いで進行方向が捻れてしまう。
 こんなことが何度も起こった。
 
 隼乃がパンチを出したはずが、なのに次の瞬間にある光景は、光希の拳が当たる直前で寸止めされるものだった。
 
 打つたび打つたび、光希には何も当たらない。
 隼乃に当たるはずだったパンチが、キックが、そこで寸止めされている。
 もう勝敗は明白だった。
「わかる? 技の仕組みが」
「…………」
 隼乃は何も答えない。
「これから、隼乃に攻略法を叩き込む。できるはずだ。隼乃なら」
 光希はそれから、今の技がどういうもので、どのように立ち回るべきなのか。いかにして破るのかを語っていき、隼乃に手本となる型を見せ始める。
 練習を済ませるに、今度は隼乃の拳が光希の顔に寸止めされるようになっていた。
 打ち合ううちに、教わったやり方に少しずつ慣れていき、だんだんと方向変換を苦にしなくなっていき、最後には隼乃が光希を圧倒した。
 こうなると、一体どちらの方が凄いのか、もう茂にはわからない。
 とにかく、凄い。
 凄いものを見せられて、自分もあんな格好いい動きが出来たらと、茂はどこかアクションに魅了されつつあった。