第6話「強敵登場!その名はサターナ」part-D
ひとしきりの練習を終え、集中力が切れたことで、全身の痛みを思い出す一ノ瀬隼乃は、無数にある激痛に顔を歪めた。
光希は茂のところへ行き、何やら空手を教え始めている。
ごくごく、簡単な正拳突き。
いかにもたどたどしく、ぎこちなくてキレもない茂のフォームに、光希が指導者として修正を入れていく。足の広げる幅や腰の落とし具合について、丁寧に教える姿は、あまり言いたく先生と子供の図式に似ていた。
隼乃の元いた怪魔次元でいえば、教育者とは怪人社会の美徳を教え、怪人に奉仕することは喜びであると、洗脳的な指導を行う存在だった。光希の世界でそんなことはないようでも、隼乃はこのまともな世界で学校生徒だった経験がないので、本当にピンと来ているかといえば少し違う。
もっとまともで、本来あるべき先生と子供のやり取りとは、きっとああいう感じなのではないかという、そんな漠然としたイメージだけだ。
実感として、光希の教え方はわかりやすかった。
「私自身が教わる立場で、あれはわかりやすかったなーとか。こう言ってくれた方が伝わるんだけどなーとか。まあ、そういうとことでね」
というのが本人談。
おかげで邪神少林拳に対するヒントは掴み、少しは勝機が見えた気がする。
問題といえば、光希が行った力の方向変換は、どうやら見よう見真似でコピーした写しに過ぎず、自ら磨いて完成させた技ではないらしい。オリジナルに比べて練度に欠け、光希がやる方向変換を攻略したとて、サターナが行うもっと熟練性に長けたものに対しても同じようになるかといえば、正直なところやってみるまでわからない。
肉体の条件も、常人と改造人間ではやはり違う。
なおも負かされる可能性は高い。
だが、負けるわけにはいかないのだ。
「で、隼乃さん。そろそろ、茂くんと遊んであげよう?」
「……やだ」
「えー。だめ?」
「駄目だ」
「どうしても?」
「どうして――」
「今晩ステーキにしようか」
「…………」
光希が作るステーキの味は忘れられない。
まあ、技の悩みに付き合ってくれたわけだから、何の断りもなく急に連れて来た件をチャラにするには十分だろう。夜がステーキだというなら、それも茂に少しくらい、今日だけ付き合うだけなら安いものだ。
ステーキのため、ステーキのためだ。
††
そうは言っても、一体何をして遊んでやればいいのか。子供の相手に慣れない隼乃にはさっぱりのところ思いつかず、すると茂は「ぼくもつよくなりたい!」と言い出すので、ひとしきりパンチとキックの練習に付き合って、それで終わった。
まるで遊んでいないのだが、本人は存分に遊んだ気持ちでいるらしい。
教え上手だった光希に比べ、遥かに不器用で拙い指導だったのに、茂はよく言うことを聞いて何度も何度も、キックとパンチの素振りを見せた。どうにかフォームに磨きがかかり、見栄えだけは綺麗になったが、実戦というより競技上の空手の打ち方しか教えていない。
大きくなって、本当に戦えるようになるまでは、相当気長に待つ必要がありそうだ。
「ありがとうございました! さようなら!」
礼をして、百合子に連れられ、帰っていく茂の背中を見つめる。
そんな隼乃の手には、一枚の絵が握られていた。
シルバーXのつもりで描いたらしいが、さすがに幼稚園児の画力である。しっかりと形を取ろうとする気持ちだけで、骨格に適った線になっていない。肘関節がどうなっているのか。それ以前に、画用紙に収めようとした結果、ちょっと全体的に潰れていないか。バランスが悪いことこの上ない落書きを渡されて、こんなものを貰っても嬉しくなどなるはずないのに……。
どうしてか、悪い気はしなかった。
「これ、どうぞ!」
と、言われた時。
「ありがとう。とても上手だ」
素というか、何というか。
大人の態度で無理に褒めようと思ったなど、別にそんな考えは抱いていない。抱く抱かない以前の問題で、本当にごく自然とそう返してしまった自分がいて、何を素直に受け取っているのだと我ながら思いはしたが、いずれにせよ貰ってしまった。
頑張って描いたんだな……。
別に、本当に、茂が実際に努力している場面を見たわけでもないのに、そういうような気がしてしまって、だから受け取ってしまったのだろうか。
「いいものもらっちゃったね」
「何がだ。こんなもの、タンスの置くにでもしまっておけ」
「捨てないんだ」
「捨て……いやそれはさすがに……」
はっきりと、捨てるという言葉を出されてみて、それは茂に悪い気がして、もうこうなると本当に貰っておくしかなくなってしまう。
はあ、仕方がない。
まあどこかにしまっておこう。
こうして玄関で光希と話しているあいだに、常人の視力でいえば、そろそろ二人の姿が見えないほど、遠く小さく見えている頃合いとなっていた。
いい加減に玄関を閉め、ステーキの催促とでもいこう。
……その時だった。
改造人間の聴力は、何キロも先の囁き声も聞き取ることができる。集中力のオンとオフで、私生活でも雑音が入り過ぎないよう、ある程度はコントロールするのだが、ふとした拍子にどこか遠くの声を聞き取ることもある。
隼乃が聞いたのは茂と百合子の悲鳴であった。
たった今まで一緒に遊び、笑顔でいてくれた茂の顔が浮かぶに、隼乃はみるみるうちに青ざめて、閉めたばかりの玄関の外へと飛び出した。
「隼乃!?」
「テェフェルだ! 二人が危ない!」
させるものか。
そこにいるのがヒルモグラだろうと、サターナだろうと負けはしない。
††
二人は帰りのバスの時間に向け、そんな事態に陥る想像もせず、ただただ平和に歩いているだけだった。
確かに過去襲われたかもしれない。
また再び怪人に狙われることがあるかもと、どこか恐れはしていても、常日頃から四方八方を警戒しながら生きていくわけでもない。まして楽しんできた直後、今日はいい日を過ごしたという余韻の中で、自分はこれから恐怖に遭うのだと、わざわざ想像する人間がどれほどいるものだろうか。
百合子と茂。
二人の前にヒルモグラが出ることに、何か特別な予兆などあるはずもなかった。
突如として、舗装の及ばない道路の外側から、噴水でも上がるがごとく土が吹き飛び、穴の中からヒルモグラが這い出てきた。
百合子は絶叫した。茂も悲鳴を上げた。
即座に背を向け、死に物狂いで逃げ出して、後ろから追ってくる姿には見向きもしない。前だけを見て必死になり、百合子は茂の手を強く握っていた。
茂の速度に合わせる余裕はない。
ありもしない腕力で、ほとんど強引に引きずって、茂はそれに懸命についていく形であった。
そして、急に茂の手が後ろへ外れる。
「茂……!」
さすがに振り向き、足を止めると、もう青ざめる以外になかった。
口腔が巨大な傘のように大きく開き、その中に呑まれた茂は、まさに百合子の目の前で、ヒルモグラの体内へとずり落ちていた。大きなものを飲み込むため、ヒルモグラは子供一人を含んだ口を上向きにして、ごくりと喉を鳴らすがごとく、腹の中へと納めていた。
ヒルやミミズの質感と酷似した腹部は、子供一人の分だけ大きく膨らみ、たった今ここで起きた出来事さえ知らずに見れば、妊娠でもしているのかと想像できる。
百合子は悲鳴を上げていた。
「茂! 茂ぅ!」
どうにも出来ず、ただ茂とだけ叫んでいる。
ヒルモグラに喰われてしまった茂だけを、たった一人の弟だけを求め、しかし怪物を前に泣き叫ぶことしかできなかった。
そんな百合子に興味などないように、ヒルモグラは背中を向け、自分の掘った穴の奥へと飛び込んで消えてしまう。
「茂……どうして……茂…………」
全身の力が抜け、腰も抜けて立てない百合子は、へたり込んでは慟哭する。
全てが信じられなかった。
怪人の存在をわかってなお、この一連の出来事は丸ごと夢で、夢さえ覚めればここに茂はいるのだと、そう思いたくてたまらない。
だが、縋るべきものはあった。
「茂くんは私が助ける」
振り向けば、たった今になって駆けつけた隼乃が、射るような鋭い眼差しを浮かべていた。
「隼乃さん……」
百合子の全身が救いを求めた。茂さえ助かるなら何でもする。何を代償にしても構わないほどの気持ちが沸く。立てないままに隼乃のジーパンを両手に掴み、世界中でもただ一人、唯一怪人を倒せる存在に縋りつく。
「お願い……します……茂を……」
「当然だ。だがお願いがある」
隼乃はおもむろにしゃがんだ。
それは光希がやった、子供の視線に高さを合わせる時のそれに酷似していた。
「……はい」
「茂くんは助ける。だが怖い思いをして帰って来る。茂くんが戻ってきたあと、茂くんのことを安心させてやれるのはあなただ。他の子供達だっている。協力して欲しい」
隼乃の口から出る『協力』という言葉が、すぅっと百合子の胸に染み込んだ。
「それともう一つ。この前はありがとう」
「……え?」
一瞬、本気で首を傾げた。
しかし、すぐに心当たりに気がついた。クラゲリアンの時に出会った少年二人に、子供の相手に慣れない隼乃は手間取っていた。そんな隼乃のすぐ近くに、たまたま百合子が通りかかって、あの時のことを言っているのだ。
「こういう危険なことがある。だから気持ちだけでも十分だと思ったんだ」
隼乃はさっと立ち上がり、何かを見据えた顔で穴の前まで突き進む。ヒルモグラが掘り返したその場所は、人間が出入りするには十分な幅をして、一体どんな深さをしているのかはわからない。
茂を連れ去るからには、どんな場所かは想像もつかないが、どこかには繋がっているはずだ。
一度だけ、隼乃は肩越しに振り向いた。
「大丈夫だ。だから待ってろ」
そして、隼乃は穴の奥底へと飛び込んだ。
††
ヒルモグラの作った穴は、よく滑りやすいように表面が磨かれて、飛び込んでみれば角度は斜めに延々と奥まで続いている。暗闇の中へとみるみる滑り落ちていく感覚は、地中に作ったウォータースライダーとでもいうべきか。
徐々に速度は上がっていき、尻と背中が土に擦れ続ける摩擦の中で、隼乃は腰ベルトに括り付けたケースの中から、一枚のカードを選び抜く。左手首に装着しているエックスブレスのカード挿入口にそれを差し込んだ。
「エックストライカー!」
叫ぶと同時に、一つ空間に飛び出した。
狙い済ましたように現れる白銀のマシンは、ちょうど隼乃が着地するべき位置にあり、足というより尻で着地する隼乃は、バイクシートに跨ると同時に、即座にエンジンをかけていた。
ここは一言、洞窟だった。
地中をどこか遠くまで掘り進み、崩落を防ぐための補強工事で壁となる板材を取り付けて、照明となるランプをいくつも並べている。ヒルモグラはこんな洞窟を形成して、テェフェルが活動に使するための地下通路を日本中に作っているのだろう。
子供の誘拐に加え、この仕事。
やはりヒルモグラは脅威性が高すぎる。
怪人である以上、重機械ほどのパワーは当然出す。つまりコンクリートや鉄板であろうと掘り返し、その気になればビルを地中に沈めることさえできるだろう。決して放置できない生物兵器だ。
隼乃は徐々に速度を上げ、洞窟のカーブに合わせてハンドルを操作する。
そして、隼乃は不意にハンドルから両手を離した。
時速百キロを越えているまま、ハンドルを握りもしないで直立する。そんな危険な行動を隼乃が取るのは、ここで事前に変身しておくためだった。
「変ッ身ッ……!」
両腕の回転から、胸の手前に腕をクロスして――。
その交点で腰横を叩き、右腕はそのまま残して左だけをバウンドのように浮かせてやる。跡から右腕でそれを追い、右手の甲に左腕の肘を乗せた形を作り、そんな左の手の平は上向きに逸らしてやる。
この両腕の形をキープして、右から左へとスライドのように運んでいく。
ドレスアップシステムを起動するため、特定の動作をスイッチとする過程が完了。
その瞬間。
まるで空中の大気そのものに画像表示機能があるように、見えないサイズだったというだけで、初めから存在していたものが急に拡大されたかのように、フォントの正しいアルファベットの『X』が、真っ赤な文字で現れていた。
この『X』という文字を成すための二本の線から、一本が隼乃の身体を打ち抜いて、背中の向こう側へと色が薄らぐように消えていく。
隼乃の衣服は、その一本の線が通り抜けていくにつれ、変身後の白銀衣装へと徐々に変化していった。
もう一本が同じように隼乃を打ち抜き、無地だった生地の上には、肩から続く赤いラインとデザイン上の黒い部分の色が現れ、最後にはハチマキのように巻くタイプの、穴あきのマスクが顔に巻かれているのだった。
仮面プリンセスシルバーX――。
その姿となって隼乃は、さらに速度を上げてヒルモグラを追跡した。
††
ヒルモグラが中身を吐き出し、粘液にまみれた茂が檻の中へと放り込まれる。
「えっへへ。賑やかになってきたわねぇ?」
褐色少女のサターナが、鉄格子を両手に掴み、顔を押し込むように覗き込み、年齢それぞれの子供達が泣き喚いている様子に楽しげにしていた。
幼稚園児もいる中で、お母さんお母さんと泣く子も多く、あるいは泣きこそせずとも絶望や恐怖で下しか向かない。
「あなた達はシルバーXを誘き寄せるエサなのよぉ?」
恍惚とした表情でサターナは語る。
「うちのパパは慎重すぎていけないの。いくら仲間の損失が怖いからってねぇ? ありもしない秘密兵器やパワーアップを怖がってるの。この世界にあるテレビ番組的には強化フォームとか言えばいいのかしら?」
確かにシルバーXは強い。しかし、いつまでも仮面プリンセスを生かしておけば、こちらに戦闘の意志がなくとも、向こうから作戦阻止に現れる。だんだんと一人ずつ削り取られ、怪人勢力は目減りしていく。
リスクがあろうと、シルバーXは積極的に倒しにいくべきだ。
肝心のマンモス将軍がそれを嫌がる。
だったら、誰かがとことんまで追い詰めて、シルバーXの手札を全て出させればいい。秘密兵器があるなら使わせる。パワーアップがあるなら使わざるを得ないまで追い詰めて、あわよくばそのまま殺す。
「これから、みんなのことを助けるヒーローが現れるけど、ここで処刑しちゃいまーす」
サターナは元気に言った。
それは本当に無垢な笑顔であった。この世の邪悪を一切知らず、穢れもない清らかなお姫様がうっとりと浮かべるような、顔だけはあまりにも可愛らしいものだった。
「この子も一緒に頑張っちゃうから、流血有りの怪人ショーをお楽しみにね?」
猫を可愛がるのと変わらない手つきで、ヒルモグラの頭をよしよしと撫でている。
子供達にとって、いくら可愛い女の子の姿をしても、怪物の隣にいて、怪物を手懐けている存在など恐怖でしかない。
クラスで大人しくしていれば、どれほど男子に人気が出たか。
愛嬌や明るさがあれば、どれほど幼稚園児が懐いたか。
サターナに対して、引くか怖がるか、そんな顔をしている子供しかここにはいない。
「ばあっ!」
急にサターナは、子供を驚かそうと檻を叩いた。
いたずらっ子がやるような愛嬌のたっぷりと篭った脅かしで、半分以上の子供が本気で怖がり、今まで泣かずにいた我慢強い部類の男の子でさえも、一斉に泣き出してしまった。
「えっへへへ。今のうちからそんな泣いてちゃ、これからもっと怖いものを見せるんだから、耐えられなくなっちゃうわよ?」
何を見せてあげようかと、サターナは今から楽しみに考えていた。
シルバーXの間接が外れて腕がぶらんと曲がるところを見せてやろうか。目玉が潰れて血が流れるところを見せてやろうか。首を切り取る瞬間か。死体となった隼乃の死肉をヒルモグラが貪るところ、というのも悪くはない。
露悪的なショーの開催を楽しみにして、やがて改造人間としての聴力が、バイクエンジンの音を遠くの距離から聞き取ると、とうとう来たかとにやりとする。
「来た来た……!」
常人の視力でいえば、まだシルバーXの姿は見えて来ない。そもそも洞窟の道なりがカーブしていて、壁が遮蔽物となって見えっこない。それであっても、自分とエックストライカーの距離が縮まるペースから、およそ何秒後には素手の拳が届く範囲に来てくれるか、だいたいの検討はつけている。
そろそろだ。
一、二、三、四――。
――来る!
「邪神少林拳……!」
サターナは構えの方向を直し、すぐ横にある壁に身体を向けた。
呼吸法に移り、手足は脱力させ、精神は緊張させ、いついかなる攻撃が飛んで来ようとも応じるための準備が全身に整っていた。
「シルバァァ! ブレェェイク!」
シルバーXは壁を突き破り、土くれを破裂のごとく吹き飛ばして現れた。
それをサターナは予期していた。
「虐殺旋風落とし!」
エックストライカーから放出されるエネルギーが、皮膚と筋肉に圧をかけ、圧縮して引き裂きかねないことなど気にも留めずに、サターナはバイクに対して技をかけた。
車体が丸ごと、プロペラのごとく旋転する。
風圧で土埃を散らし、檻の中の子供の髪までそよがせる回転力で、執拗なまでに地面にぶつかり続ける。超人にしかできない高度な自傷行為であるように、人間の頭が秒間何十回もかけて地面を抉り、やがて息絶えるように仕向けるのが、サターナの虐殺旋風落としである。
しかし、バイクに息絶えるも何もなく、破損パーツを散らすことさえないままに四散消滅。
「――トォウ!」
いつの間にバイクを飛び降りていたシルバーXの、落下の勢いを乗せた回し蹴りが、サターナの頭部を華麗なまでに打ち抜いていた。
††
シルバーXは立つ。
サターナを、ヒルモグラを前に、銀式少林拳の構えを取り、檻にとじこめられた子供達を背中にする。
既に三人全員が、戦闘に向けた精神集中を完了していた。
呼吸を整え、心を無とすれば、やがて身体に『気』は満ちる。呼吸が続くにつれて『気』は腹の内側へと、器に水が溜まりゆくかのように溢れ出し、ついには全身に循環していく。
この『気』とは精神と繋がる。
サターナは己の力を破壊と殺戮の心へ繋げ、シルバーXは後ろの子供達への思いに『気』を繋げている。
ヒルモグラが動いた。
横振りの腕のスイングで、爪の先端の鋭さを活かした斬撃へと、シルバーXは大胆なほどに踏み込んだ。切れ味があるのはあくまで爪、肩から手首にかけての部分を止めればいい。
シルバーXは決して防御には出ていなかった。
その動き自体は踏み込みで距離を調整した後、片腕を盾に受けるものだが、ヒルモグラの受けるとシルバーXの腕が接するや否や、直前までは限りなく脱力していた腕に力が入る。もう片方の腕も取りつき、肘間接を折り曲げて、強く捩るなり、ヒルモグラの腕は曲がるはずのない方向に曲がっていた。
さらに曲げた頃には相手の腕と肩とをそれぞれ掴み、ヒルモグラの重心を自分の足腰と腕力でコントロール。向かってくるサターナへの壁として、投げてぶつけて受け止めさせる。この一瞬だけヒルモグラの影に隠れ、サターナの視界にシルバーXの姿は映らない。
シルバーXは迅速に足腰で構え、腰の移動で上半身を運んでやり、大地を踏み抜かんばかりの周囲を揺るがす踏み込みで、『気』の重圧を最大限にかけた一撃をヒルモグラに叩き込む。
ヒルモグラを被せた上から、サターナを殴ったのだ。
それまでは脱力しきり、肩から指の先にかけ、全ての筋肉が緩んでいたシルバーXの腕は、拳が相手に接触する時に合わせて極限の腕力を発揮する。さらには甲が下向きだったのが、ぐるりと捩れることでヒルモグラの皮膚も捩れて、螺旋のような重圧が腹を打ち抜く。
目には見えないドリルを打ち込み、ヒルモグラの肉体を突き破った向こう側まで腕が届くイメージだった。
それは実際にサターナに届いていた。
「えっへぇ! 痛ぁい!」
苦痛によって笑顔を浮かべるサターナの声に、シルバーXはすぐさま戦慄していた。
そう、サターナの『気』は尋常ならざる精神と直結している。痛みを相手に与えても、自分から血が出ても、それが嬉しくてたまらない。もっと大きな痛みで返してやりたい。
傷つけ合うことは楽しいことと。
殺し合いを娯楽とする境地にサターナはいるのだ。
「もっと痛いことしてあげるぅ!」
サターナはヒルモグラを脇に押し退け、我こそはとばかりに前に出る。
「トォウ!」
シルバーXのパンチ――方向変換! 意味のない方向へ拳は飛ぶが――。
――腕が肘打ちの形で戻った。
それはパンチを打つ際、後ろ足を持ち上げて、上半身を投げてぶつけるような勢いで殴ったからだ。浮かせた足を活用して、逸らされた腕を使って攻撃ができるよう、二度目の踏み込みができる準備をしていた。
シルバーXの肘がサターナの腕に直撃、肩の後ろまで打ち飛ばす。
――焦ってるんじゃない?
光希からはそう言われた。
――だから思いつくはずのことが思いつかない。
サターナの技は流水のイメージだ。打撃から流れる激しい力は、まともに受ければ痛みとなるが、ならば枝分かれさせてしまえばいい。打撃に手を触れ腕を絡めるとき、サターナはシルバーXの放った力が、自分の中にも分かれて流れ込むよう仕向け、取り込んだものを自分のエネルギーと変え、腹で練り上げ打ち返す。
――隼乃ならきっと、私の教える技ができるはず。
方向変換は腕のみでは成立しない。足腰を安定させ、足で地面を押すかのような重心の調整で身体を支えつつ、返すべき方向に傾ける。足で地面を押す力と、腹や腰の内部にある筋力も腕に伝え、そこに純粋な腕力も加えることで成り立つものだ。
足腰が技のフォームの一部である以上、方向変換が可能な方向はその時々で限られる。
自分の拳がどの方向に逸らされるかが読めてしまえば、いくらでも対処は可能だ。
「トゥっ!」
パンチと同時に片足は浮き、サターナの方向変換が行われても、即座に二度目の踏み込みを行い、肘打ちをぶつけてやる。
そして、シルバーXはイメージを固めていた。
――真正面から、津波のような流水で全てを押し流すイメージはすて、それを竜巻と変えて力ずくで突っ切るんだ!
「銀式少林拳! 螺旋槍破拳!」
その拳はサターナの方向変換などまるで無視して、触れてくる腕を突っ切り、胸元へと届いていた。
腕の内部で螺旋のごとく渦を巻き、拳の先で槍のように鋭く固まる。それはどんな強靭なる盾をも破壊するという『技術』の一つだ。
「うっ、そ……! 痛い! 痛い痛い! 痛いわ!」
自分の技を破られてなお、サターナはむしろ余計に笑顔であった。
サターナの胸元に開いた傷口は、表面をドリルの先端で掘削し、螺旋回転に合わせて皮膚も肉も掘り返されてしまったような、とても打撃という方法で与えた外傷には見えない形だ。
光希との特訓が、新たな技の閃きを与えてくれた。
それは銀式少林拳の中へと吸収され、消化され、光希に教わった方法の丸写しとは違う形へと変化して現れる。光希が会得しているものと類似こそすれ厳密には違う技、その日のうちに隼乃だけのものとなったのが螺旋槍破拳だ。
螺旋の勢いは枝分かれせず、サターナの方向変換を受け付けない。
そう、数々のパンチの中に、そうした一撃を潜ませることができるようになったのだ。他のパンチならいざ知らす、それだけは逸らすことはならず、触れれば逆に負傷する。サターナにとってはとんだジョーカーだ。
これでシルバーXは二種類のジョーカー持ち。
「トゥ!」
「テイヤァ!」
パンチ! キック!
サターナの腕がシルバーXの足に弾かれ、それを皮切りとして二人は、より激しい打ち合いを開始した。
打撃、受け、掴み――格闘上のやり取りが成立すると、疾風のような手足の動きが、お互いの身体にダメージを蓄積していく。
これがどのようなやり取りで、どのような流れであるのか。それを目で追える動体視力と解説しうる造詣の深さがなければ、ただただ、速くて物凄い戦いだとしか理解できない。
パンチ一つ、キック一つに必ず意味がある。
防御のために腕を出させ、回避のために足腰の操作をさせ、自分の思う形に動いてくれるようにとコントロールを試みる。
お互い目論見を読み合って、あえて相手の誘導に乗りつつ思わぬ作戦で返している。乗ろうとする予兆だけを見せてフェイントに引っかける。フェイントかもしれないので小さな挙動も慎重に判断、いやその慎重にならせること自体まで織り込み済み。
何よりサターナにはジョーカーの警戒と、シルバーXにはその使うべきタイミングを読み切る必要がある。
もはや殴り合いの形をした心理ゲームだ。
相手の動きを見てから反応するなどという領域に二人はいない。細かな挙動の意味を読み当て、相手の意図はこうだから自分はこう出る。そう出ることも想定のうちであり、また想定されることを想定して、読みに読みが積み重なり、実際の身体の動きより十手も二十手も、しまいには百まで越えている。
肉体酷使でありながら頭脳戦。将棋やチェスとはルールの次元が違っただけの対戦ゲーム。
サターナは心底ゲームを楽しんでいた。自分の鼻がへし折られ、四肢が骨折しかけても、腹部への衝撃的で内臓破裂の裂傷が起こってさえ、とにかくサターナは笑うのだ。
「あはっ、痛いわぁ! でも今の! 私の技の方がぁ? もっと痛いわよねぇ! えっへぁっはははははは!」
人間体であろうに関わらず、小さな子供でさえもが既にサターナを人間として見ていない。ヒルモグラと一緒にいて、悪い人だとは初めから認識されていたわけだが、血を流しながら笑う相手に人間性を感じるなど無理があった。
今まで急に拐われ閉じ込められ、ヒルモグラが怖くて泣いていたのが、しだいにサターナの方が怖くて泣いていた。
「やってやる……」
檻に閉じ込められた、どうしても泣いて怖がる子供。
電刃忍者霧雨がいなくともやってやる!
しかし、シルバーXには一つの問題があった。
ただでさえ万全ではない身体にダメージを重ね、しかしサターナは先程までは万全だった。テェフェルの怪人は整った設備で再生手術を初めとした措置を受け、つい昨日の傷を完治させることが可能である。これほど強いサターナにそのくらいの待遇がないはずがない。
本人達にとっては果てしない、素人目にはたったの十数秒間に過ぎない戦いは、やがてシルバーXの動きが低下することによって、サターナの優勢へと移り変わる。
いや、まだ力は残っている。
螺旋槍破拳!
対するサターナの放つ、単なる鋭いパンチとぶつかり合い、拳が押し合う力勝負に弾かれるのは、シルバーXの方だった。
「んな……!」
急に力が抜けていた。
――ヒルだ。
自然界のヒルには牙があり、皮膚を切り開いて血を吸うのだと知っている。血が固まるのを邪魔するヒルジンという物質があり、だから出血が続くことも知識にあるが、ヒルモグラが使役する種類は、実在のヤマビルにもチスイヒルにも当てはまらない。
さしずめ、テェフェルヒル。
手で握るグリップサイズの軟体生物は、吸盤によってシルバーXの胸に吸い付き、そのエネルギーを吸収していた。
ちゅぅっ、ちゅぅ……。
と、歯のない口で噛み付いて、乳房の頂点を吸い上げる。母乳でも飲みたいように、強化衣装の上から変身エネルギーを吸い取るにつれ、そのエネルギーを溜め込むのは、テェフェルヒルではなくヒルモグラ本体だった。
電波端末のように吸収したエネルギーを送信して、絶えず本体に流し続ける。
いつからヒルがついていたのか。全く想像がつかなかった。
気づいてみれば太ももにも、首筋にも、いたるところにテェフェルヒルがついており、音を立ててエネルギーを吸っていた。
くらっ……。
頭が揺れ、膝をつき、ついに倒れたシルバーXの肉体目指し、さらに何匹ものテェフェルヒルが這い寄ると、襟の部分から衣服の内側に入り込む。水分を含む体表に、布地がべったりと貼り付くことで、ヒルの形は如実なまでに浮き上がり、一匹は下半身へ向かっていく。
「くぁあっ、あぁ……!」
ベルトさえ通り抜けた股の部分に吸い付いて、もう一匹はブラジャーの内側に潜り込む。出るはずのない母乳に代わって、さらにエネルギーは吸い上げられ、下からも刺激を受ける。
喘ぐ体力さえなくなるのはすぐだった。
完全にぐったりと、ぴくりとも動くことはなくなって、ともすればたった今ここで死んでしまったかのようにも見えた。
ただ吸われるがまま、息だけが続いている。
「あら? あららら? ららららら?」
サターナは口元を手で押さえ、照れ隠しの乙女のように緩んだ唇の笑みを隠して、小走りでシルバーXの顔を上から覗く。
「やっぱり! パパは慎重すぎなの! シルバーXにはこれ以上の秘密兵器もなければ、無敵の強化フォームだって持ってないの! だってあれば使ってるでしょ? だってだってだって私! まだ怪人の姿見せてないの! 常識的に使うでしょ? 結局なんちゃらフォームとかそんなのないんでしょ! もうここでサヨナラじゃない! サイッコー!」
次にサターナはヒルモグラに視線をやる。
そして、言った。
「丸呑みしちゃって? 消化しちゃいなさい?」
すぐにヒルモグラはシルバーXを呑み込んだ。