第7話「狙われたパパ」part-A
気味が悪い。
彼女をそう感じるようになったのは数日前から、休暇を境に何かが変わった気がしてならない。何が、と聞かれれば、具体的には答えられない。漠然とそういう気持ちになるだけで、強いて言うなら「何となく」になるだろうか。
その男は彼女のマネージャーをやっていた。
高校時代にスカウトされ、徐々に人気が延びてきたアイドルに付いてから、下積みの頃から苦労を共にしてきた戦友のように思っている。表舞台で輝く彼女の裏には自分がいるのが誇らしい。
アイドルの名前は高神留美子。
ルックスとしては身長一五五センチの小柄な可愛い系で、小動物のようなつぶらな瞳で見つめられれば、よしよしと頭を撫でて可愛がってやりたくなってくる。素の性格が若干甘えん坊で、だから商業的にも甘えっぽい部分を前面に、その可愛らしさとはギャップの激しい優れたアクション能力を売りにしている。
小学生の頃に空手と柔道を六年間習い、中学から始めた剣道では才能を発揮して、高校二年の時には全国大会に出場している。身体能力の高さでアクション映画のオファーを受け、山野剣友会による一ヶ月間の稽古を経ての剣戟アクション映画は、ばりばりのアクション系アイドルとしての注目を集める大きなきっかけとなった。
それを契機に特撮ヒーロー番組にも何度か出て、南条光希主演の『電刃忍者霧雨』でも、悪役に挑戦して生身の殺陣を演じている。可愛い系の女子による、小悪魔系の悪役と、イケメンとでも言うべき美形女子での女同士の熱いバトルは――まあ作中の雷道霧破は男であり、映画の感想にも妙に中性的な少年だとしか思っていないのが一定数見受けられるが、ともかくファンを魅了した。
長年時代劇を演じたベテランから見ても、二人の殺陣は優れていたらしく、映画放映当時に放送されたバラエティの宣伝コーナーでは、時代劇シリーズで名を上げた大物俳優が剣術シーンを絶賛していた。
そんな留美子は疲れ果てると、いつもだいたいばたりと倒れ、甘えに甘えきった声を出す。
「……もう動けないよぉ……おんぶしてぇ? ねえ、いいでしょぉ?」
という具合に。
頭を撫でると猫か犬のごとく喜ぶ。
その高神留美子が先日までとは別人に感じられて仕方がない。
撫でれば喜び、アクション現場に入れば似合わぬ身体能力を発揮する。一度スイッチが切れればおんぶだのと言ってくる。そこに何の変化もないというのに、どうしても何かが違う気がしてならない。
まるで瓜二つなだけの別人が、外見では区別がつかないのをいいことに、性格や能力まで高神留美子になりきってみせているような、この胸の中の違和感を無理にでも言葉をにすれば、そう言うくらいしかないだろう。
いや……。
きっと疲れたせいで、無意識のうちにおかしな妄想が浮かんだのだ。その妄想のおかげで、オフを挟んで数日ぶりに顔を見て、わけのわからない印象を抱いてしまった。
ただ、それだけだ。
なので別段、それで特別に悩んだり、真剣に問いただそうなど、そんな馬鹿らしいことは何一つ考えてはいない。たまたまおかしな気分になった。気のせいの一言で済む。それ以上でもそれ以下でもないものとして、マネージャーの男はとっくに自分の感情を切り捨てていた。
――都内、芸能事務所。
出勤したマネージャーがオフィスビルに立ち入ると、ガラスドアの境を踏み越え、その領域に入るや否や、
ぞわっ、
全身が総毛立った。
何故だ? わけがわからない。
気温が低いわけでもないのに、急に冷蔵庫の中にでも入った気分だ。
こつん、こつん、
靴の裏側で地面を叩き、一歩ずつ歩んでいく音が、奇妙なほど響いていた。
廃墟のように寂れていて、耳鳴りが煩くなって頭が痛い。
どうして誰もいない?
いつもならとっくに誰かとすれ違い、挨拶を交わしている頃だが、エレベーターに乗っても人と乗り合わせることがない。長い廊下を歩んでも、部屋ごとに並んだドアの、その向こう側から、人間のいる気配が伝わってこなかった。
普通は何か、あるはずだ。
これだけ静かなら誰かの話し声が聞こえてもいい。タイピングの音が聞こえてもいい。何かが普通はある。静かすぎる。まるで本当に無人ではないか。
だんだんとわけもわからぬ不安に追われ、マネージャーは足早になって自分の向かうべき部屋のドアノブを掴む。
ぎぃぃぃぃ……。
ドアの立て付けのせいなのか、板の軋んで響く音が鳴り、嫌にゆっくり開いていった。
そして、本当に無人だった。
窓の外から、太陽の明るさが照らしてくれている以外は、電気も着いていない光景に、てっきり休日と間違えて出勤したのかと、壁にかかったカレンダーに目をやった。まさか日付を間違えるはずもなく、時計を見るにも時間通りの出勤だ。
なのに何故、ここには誰もいないのか。
……いや、いた。
「……留美子ちゃん」
見知った顔に一瞬ばかりホっとして、近づこうとしたマネージャーは、留美子の様子のおかしさにぎょっと足を止めていた。
「…………」
ぼぅっとしていた。
何かに取り憑かれてしまったか、魂でも抜かれた顔で、ぼんやりと見つめているのが、両手に抱えたクマのぬいぐるみだ。趣味も可愛い留美子はそういうものを好んでおり、ぬいぐるみでよく喜ぶ。
だから、それ自体はおかしくない。
「留美子ちゃん?」
「…………」
おかしいのは、声をかけても何らの反応もないことだ。
留美子はこんな子ではない。マネージャーの顔を見れば喜んで、すぐに元気な挨拶をしながら寄って来る。少なくとも、声をかけても無反応。無機質な人形に見えるときなど、デビューから今までにかけて、一度もなかったことである。
『ケンゲキスネークよ』
ぬいぐるみから、似つかわしくない男の声が音声として聞こえてきた。
「……はい」
『お前の所属はこれよりテェフェル芸能事務所となる。テェフェルの息のかかった栄光の俳優としてこれからも活躍を続け、怪人による芸能界侵食を開始する。数多くのテレビ関係者が改造人間となっていくのだ』
「了解しました」
会話を終え、留美子はぬいぐるみをテーブルに置いて手放した。
わけがわからなかった。
「……ねえ、どうしたの? なんか、今日は変だね」
何かを誤魔化したいかのように、マネージャーは焦燥気味に言葉を吐き出す。
おかしい。完全におかしい。
音声の出る仕組みで、喋ることの可能なぬいぐるみなど不思議はない。人間の声に反応して会話が出来る商品を試みて、それが売られていたとしても驚かない。その程度の技術で驚くような時代じゃない。
だが、今のはそういう感じとは少し違った。
ボイス入りの玩具を相手にお喋りというよりも、電話機を持って通信の向こう側にいる相手と喋っていたとする方が、おかしな会話内容にも関わらず、よほどしっくり来てしまう。
「あの……」
留美子はぼんやりと、生気の抜け切った声を放った。
「うん。なに?」
「これからも、私のマネージャーでいてくれますか?」
何故、そんなことを聞くのだろう。どうして、いつもと違う様子なのだろう。この事務所自体に自分達以外の人間がいないのもどういうわけか。かつてない気味の悪さに閉口して、少しのあいだオロオロと、それからマネージャーは答えてやった。
「も、もちろんだよ」
「よかった」
にこりと、いつも通りの笑顔を見た途端、ぞっ、と鳥肌が立った。普段の留美子が浮かべる無邪気で甘えん坊じみた笑顔に、ここまで薄ら寒いものを感じる理由が、マネージャー自身にもわからない。
……怖かった。
やっぱり、目の前にいるのは留美子であって留美子じゃない。きっとそうに違いない。おかしな思い込みに取り憑かれてしまったと、心のどこかに残る理性が、現実的な判断を下そうと粘っているが、何の根拠もない不安や恐怖の方が、彼の中では遥かに上回った。
「今日ね。誰もいないんだよ?」
留美子は言う。
「どうしてだと思う?」
「さ、さあ……」
マネージャーの浮かべる笑顔が、どこか必死で引き攣っていた。
自分は留美子を恐れている。留美子には正体がある。だから内心震えていて、それを見透かされてしまったら、きっと自分はどうにかされてしまう。
本当に何故? どうしてこんな馬鹿馬鹿しい怖さがある?
そんなわけないじゃないか。
何を焦る? 何を恐れる?
「首領の命令でね。色々とやることがあるんだって」
「……首領?」
「そ。首領」
その言葉が指す人物が、社長やプロデューサーではないことは、もう何となく察していた。
なら、誰?
そもそも、さっきは誰と話していた?
「マネージャーさん? なんか、気づいてるでしょ」
「……っ!」
異常なほど口が引き攣り、頬の筋肉に力の入った顔つきで、今にも戦慄が浮かんでしまいそうな表情を必死に抑え、マネージャーは命懸けで愛想笑いを浮かべていた。取り繕い、誤魔化すことができなければ、自分はここで殺されるのだという死に物狂いの恐怖に囚われ、とっくに涙目になっていることを彼は自覚していない。
「雰囲気? 直感? なんかねぇ、そういうので絶対にバレるからって、首領に相談してみたんだけど、そしたらもう正体を見せていいって」
「正体? は、ははっ、なにを言ってるの? みんなはどこ? 全く、一体何のやることがあるっていうんだよ? はは、あははは! なにも聞いてないぞ?」
ここまで留美子が言ってなお、マネージャーは狂ったように誤魔化しを続けている。
だがもう、彼の運命は決まっていた。
「見せてあげるね?」
あるいはここを嗅ぎつけたヒーローが、この場所に間に合いでもしたならば、まだしも彼の運命は変わるだろう。巨大不明生物やクラゲのお化けが起こした事件で、一度攫われたらしい子供が、自分達を救った存在の名を嬉々として口にしている。その存在が都市伝説として語られ始めているというのを、実のところ親戚の子供が攫われただとかで知っていた。
ありとあらゆる話が、マネージャーの頭を掠めていた。
そうだ。こんな話をしていたのが、この職場の仲間の中にもいた。
人が変わったような気がしてならない。言動や顔つきはいつも通りで、急に趣味や服装が変わったわけでも、思想や能力に変化があったわけでもない。冷静に見ればどこにも変わりはないにも関わらず、変わった気がするという、漠然とした印象が嫌というほど湧き出てきて仕方がない。
それは他のマネージャーがそれぞれ担当しているアイドル達であったり、プロデューサーのことであったり、みんなこの事務所に関わる人間達だ。
ああ、そうか。そうだったんだ。
この事務所はとっくに――とっくに、なんだ? とにかくこの事務所は、とっくにどうにかなっていたのだ。
「私の中にある高神留美子の記憶はね。便利だから残してあっただけなんだよ?」
マネージャーの目の前で起こるのは、一人の人間が全く別の生物へと、怪人へと変化していくおぞましい過程であった。
皮膚が物を取り込み喰らっていくかのように、髪が内側へ沈んでいく。衣服の繊維が細かく消えていき、細かな産毛まで含め、何らの毛が存在しない、あまりにも艶やかな裸体となる留美子の身体には、病変が広がるように黒い斑点が次から次へと、全身のいたるところに浮かび上がった。
毛穴の口が広がるように、皮膚の下から外へと浮き出るものは鱗であった。
身体中が鱗を持ち、顔の筋肉が、骨格が変形していき、ヘビ怪人とでも呼ぶしかない怪物の姿に成り果てると、もうそこには留美子の面影が残っていない。
「はは……ははは……」
もう何も言えなかった。
非現実的な光景に笑うしかなく、本能のどこかで死を悟った涙を流しながら、狂いに狂った愛想笑いだけを浮かべ続ける。
「ケンゲキスネーク!」
名乗る怪人。
その腕がマネージャーの首に食い込み、喉を圧迫して締め上げると、彼の意識は急速に遠のいていく。
そして、このマネージャーは二度と正常な人間として目覚めることはない。
次に目覚める頃には怪人か、はたまたは戦闘員か。
いずれにせよ悪の組織テェフェルの配下。
一ノ瀬隼乃が嗅ぎつけるその頃には、芸能事務所が丸ごと一つ、とっくにテェフェル基地の一つへと変えられていた。
††
今日は父親が帰って来る。
そう電話で話をしてくれて、南条光希は待ち合わせの場所へと向かっていた。
一九七二年、当時十六歳で『電刃忍者霧雨』の主役を一年間演じた南条辰巳は、翌年の『鉄刃タイガーゼロ』も一年やり、その後は美貌のルックスから時代劇の沖田総司など他の多くの二枚目役を通して経験を積んでいき、現在では海外のアクション映画で活躍している。
つまり光希は世界にもその名を知られるアクションスターの娘であり、多額の収入を考えるなら、本当のところはもっとリッチな家を建て、大富豪のような生活を送れなくもない。そう考えればケチな暮らしをしている方か。
娘としては誇らしくて、そんな父親の血を引いていると思えばこそ持てる自信もある。
反面、会えない。
早くに母親が亡くなったこともあり、家に一人残されている光希としては、学校から帰って来ても「おかえり」と言ってくれる誰かがいない。晩御飯は一人で食べ、日曜日にも家族はいない生活が、少しずつ、ほんの少しずつ、光希の心を寂しさによって削り取る。
根の図太い光希だ。
それは本当に、砂粒のように少しずつだけ。
しかし、それさえ長大な時間をかければやがて大きな穴となる。
隼乃との出会いが、ちょうど光希の穴を埋めていた。行き場のない恩人を光希としては放っておけない。改造人間であることや、テェフェルと戦う事情をわかっていながら、むしろだからこそ、隼乃を自分の傍に置いておきたいと感じたのだ。
亡くなった母親のお腹には、本当は新しい命が宿っていて、光希は姉になるはずだった。母親が生きていたなら、きっと家で一人ではなかっただろうと、そんな想像をしたことが何度かある。心のどこかで妹を欲しがっていた気持ちは大きい。
隼乃の境遇にも、想像力は及んでいた。
別の世界からここに現れ、この世界の誰も一ノ瀬隼乃の存在を知りもしない。そのまま隼乃を放っていては、隼乃の身には普通では想像できない孤独が降りかかる。どれだけ辛いだろうかと考えるに、肩入れせずにはいられない。
隼乃は必要な人間だ。テェフェルから世界を守ってくれるためにも。
だから、今日はちゃんと隼乃を紹介しよう。
と、そう思ったまではいいのだが。
肝心の隼乃に予定があった。
「テェフェルの尻尾を掴んだ。今追わなければ貴重な情報を逃す」
日常的にテェフェルの追跡をしている隼乃が言うには、著名人が改造され、外見や表面の性格はそのままに、中身が怪人に変えられている可能性が高いという。新たな動きを掴んで阻止すべく、今日も奔走する隼乃なので、残念ながら待ち合わせには連れて行けない。
ゆっくりと顔を合わせる機会はまた別にあるだろう。
まずは自分が父と会い、久々の再会をゆっくりと過ごしておこう。
††
南条辰巳は豪華客船に乗っていた。
高級料理のレストランが内装され、広々としたデッキにはプールも設置されている。エステサロンのようなサービスから、映画館まで備わった客船は、二千人以上もの客を収容できる四階建ての構造だ。
数年先まで埋まったスケジュールと戦う日々で、何本ものアクション映画は日本でも公開されている。ようやく手に入れたオフの日に、辰巳の帰国がファンに知れれば、一体どれほどの人が殺到するかわからない。
騒ぎにならないように気をつけなくてはいけないのが、有名人の辛いところか。
今となっては五十五歳のオジサンだが、顔立ちの若さで三十代に見られやすい。肉体的にもまだまだ若い世代には引けを取らず、スタントマンが臆する高さから、マット無しでの飛び降りをやっても問題ない。
治安の悪い国でガラの悪い男に囲まれたこともあったが、殺陣の経験を文字通り無数に積み上げ、未だに武術稽古に事欠かない辰巳の実力は、まさしく年季が違っている。人間がやりたがる動きのありとあらゆるパターンを知り尽くし、立ち会ったその瞬間から、まるで未来が見えているかのように全てを見透かして戦える。
ごく一般的な五十代男性の体力に比べ、辰巳の肉体は何の誇張もなく次元が違う。
それでも、いつかは無茶が出来ない体になるとは思う。
ただ、それはまだまだ先のこと。
しかし、十年か二十年か、あるいは三十年にせよ、いずれ体が思うようには動かなくなると考えるに、若い世代に自分の培ったものを伝えていきたい気持ちが沸く。若い力にしかできないことをやり、何かを成し遂げて欲しいと思う。
だが今は、とにかく目と鼻の先まで近づく日本の陸をぼんやり眺め、もうじき娘に会えることの楽しみに浸っていた。
――光希のやつ、どうしてっかなぁ……。
娘の顔を頭に浮かべ、どんな話をしようかと、どこで一緒に食事をしようか、考えているだけでもう楽しい。楽しみで楽しみで、この船のゆったりとした動きがもどかしい。待ちきれなくて、どうにかなってしまいそうだ。
††
娘には一時期――いや、あの時、決定的に嫌われていた。呪わしくさえあっただろう。あんな小さな年頃で、大人でも抱えきれないショックを上手に受け止められるはずもなく、どこかに矛先を向けることしか出来なかったのだ。
まだ娘が小さい時、辰巳の妻は殺人犯に殺された。
そこに大きな理由などありはしない。妻のことを特別に恨む人物というわけでもなく、むしろ児童を対象にした快楽殺人の凶悪犯で、殺すことで性的な喜びを得る恐るべき性癖から、本当は光希の方が狙われて、それを庇った妻が代わりに死んだ。
家族で一緒に出かけていて、ちょっと向こうの自動販売機で飲み物でも買って来ようと、そのわずかな隙のあいだに……。
あの当時、とても大きな気配があった。うなじの皮膚を熱で炙らんばかりの、強烈で恐ろしい気配に気づいてから、すぐに自販機へ向ける足を止めていた。おかしな奴が近くにいると、もうそこでわかってはいたのだ。
しかし、振り向いた瞬間には、もう間に合う距離にはいなかった。
オフに浮かれて、気づくのが遅れていた。
辰巳の足がどんなに速いところで、十メートル以上も先にいた犯人の背中を捕らえるには至らずして、あえなく目の前で失った。
血の海が広がった途端、辰巳は呆然とした。
何が起こったのかがわからなかった。
……いや、わかる。わかるのだ。
だが、霧雨時代に共演した同い年と恋をして、幸せに結ばれた二人のあいだには、世界で一番大切な宝物まで生まれてきて、とてもとても幸せな人生を送っていた。もう他に何もいらないくらいの、本当に満足のいく生活を送っていた。
それが前触れも理由もなく、ただただいきなり、わけのわからぬキチガイがそこにいたというだけで――失った。
大切な人が死に、それを目の前で見ていながら、その場で冷静にショックを受け止めきれる人間が、一体世界にどれほどいるか。
目の前の現実に納得がいかない。脳神経の全てが妻の死の現実を拒んでいた。
娘の絶叫がどこか遠く、何も聞こえてはいないほど……。
しかし。
「ちっ、お前じゃねぇよ」
凶悪犯人がツバを吐き、それが妻にかかった次には、今度こそ本命を殺そうと、死体から引き抜いた刃を光希の方に向けている。
辰巳の中で、何かが切れた。
自分が何をしていたのか。自分でもわかっていない。とにかくカッと、頭が真っ白になってしまい、目が覚めた時には自分は犯人に馬乗りになっていて、顎の骨折で顔が変形しきるほどまで辰巳は犯人を殴り続けていた。
倒れた母親に続けて、父親が犯人を殴り殺さんとしている光景に対する恐怖で、そんなものを体験した女児の精神が正常を保てるはずがない。
怖いから突き放す気持ち。大きすぎる動揺。
――どうして守ってくれなかったの!?
光希は叫んでいた。
お父さんほど強ければ、もっときちんと倒せたはず。
お母さんだって死なずに済んだ。
辰巳自身がそう思う。オフに浮かれて油断せず、きちんと家族を見ていれば、あれぐらいの奴はどうとでもできたのだ。
それを……。
――お父さんのせいだ!
パニックの末に、きっと光希自身わけもわからず、目の前の父親に矛先を向けたのだ。
それに対して、何も返す言葉はなかった。
妻の死んだ悲劇に関わらず、過剰防衛の方を殊更に取り上げて、強いくせに妻を守れず狂った姿として報道しようとする姿勢の腐ったマスコミが沸いた。元ヒーロー役者が妻を失い、犯人相手に暴走したエピソードは、マスコミにとっては美味しいネタだ。
当時はインターネットの普及度がまだ低く、だからネットで偏向報道を叩く風潮もまだなかった。この流れはおかしい、酷い報道のあり方だと唱える声が、そうそう簡単には広まらない。それより面白おかしくネタにする声にかき消され、心無い言葉だけが辰巳に届く状態は、さしもの辰巳さえも追いつめていた。
しばらく、何のやる気も起きなかった。
光希はショックで精神的な外傷を受け、辰巳自身も精神が疲弊して、どれだけのあいだ、ただぼんやりと何もせずに過ごしていたかわかりもしない。
何故、どうやってそこから立ち直ったか。聞かれても詳しくは説明できない。何せ豊富な語彙を用いてエピソードを語るほど、劇的なストーリーから立ち直ったわけではない。一言で言えば炎のスイッチが入ったのだ。
それは、ある日。
精神治療の様子を見るため、本当にぼんやりとした顔で、病院を訪れると、そこには何人か押しかけるマスコミの姿があった。そのマスコミの狙いはなんと、未だに治療の終わらない幼い光希で、どこから知ったか、父に矛先を向けることでしか自分を保てない状態のことを聞いたらしい。
そう、娘が父を恨んでいる証言が欲しくて欲しくて、マスコミは光希のことまで取材の対象にしようと狙ったのだ。
マイクを片手に、小さな娘まで追い詰めよううと。
こいつら……!
その時から怒りが沸いた。
怒りと同時に使命感で震え上がった。
俺が光希を守らなくてどうする。光希がなんと言ったって、俺は光希の父親じゃないか。あんな言葉は関係ない。誰が何と言おうと気にしている場合なんかじゃない! こんな時だからこそ俺が娘を守らなくてどうするんだ!
南条辰巳という漢の顔に生気が戻り、そして一つの決意を固めたのはその時だ。
どんなに辛いことがあっても、苦しい時でも決して負けない!
そんな強い娘に育ててやる! 俺が守って強くしてやる!