第8話「BLACK!!変身」part-B



 南条光希は左手首にローズブレスを押し当てた。スマートフォンにも似て、画面面積の広い機器の両サイドから、手首へと巻きつくためのベルトが射出され、若干強めの締め付けが、そこに機体を固定する。
 さらにベルトに括り付けてあるケースから、一枚のカードを引き抜き、カード挿入口に刺し込むことで一台のバイクを出現させた。
 
 ――ブラックルーザー。
 
 漆黒のフレームに覆われたそのマシンは、滑らかな光沢を帯びて黒光りして、どこにも細かな傷のない姿は買いたての新品を思わせる。エックストライカーの怪物じみた性能を思うにこれもきっと化け物なのだろう。
 ごくりと、息を呑む。
 三年も前から覚悟を決め、改造人間にまでなっている隼乃と違い、光希の経歴などただの人間のものに過ぎない。いくら映画出演や山野剣友会での経験があり、普通の人間とは異なる育ちをしていても、本物の悪と戦う機会があるに違いないとは想像さえしたことがなかった。
 そんな自分が、これから単独で敵基地へ向かっていく。
 幸いにして、光希の度胸や芯の強さは一般の女子高生が持つものではない。危険なスタントをこなしたいから、高所から飛び降りるくらいでは怖がらない。恐怖への耐性があるから、自分を殺そうとしてくる敵が目の前にいてもパニックは起こさない。
 その光希にしても、欠片の緊張もないわけがなかった。
 言い方は悪いが、ヒーローショーの本番でミスをしても死ぬわけじゃない。
 しかし、悪の組織テェフェルを相手に殺されたり、あるいは怪人に変えられれば、南条光希としての人生は終わってしまう。人間関係や仕事のミスを挽回できることはあっても、死んでから生き返ることはできない。
 しかし、そんなことを言っている場合ではない。
 父さんはどうなる? 父さんの人生は?
 五十五歳になっても、まだまだ現役として体が動く。鍛え方の足りない若者より、よほど丈夫で力もある。アクションスターとして世界に輝く辰巳には、これからもやってみたい役の十や二十はあるだろう。
 改造人間となり、怪人になるということは、その人の夢や人生が消えるだけではない。
 誰かを笑顔に――エンターテインメントの提供者だったはずの男が、これから悪事に手を染めていき、今度は不幸を振りまいていくかもしれない。
 父さんがそれを望むか?
 ――望むわけがない。
 もし自分なら、どうだろう。
 私が改造人間となり、怪人として悪事を働く。子供達に恐怖を与え、命を奪うことさえありあるなど、そんなことは考えたくもない。そんなことは望まない。もしそうなって、元に戻す方法もないのなら、南条光希は間違いなくシルバーXに倒されての死を望む。
 着ぐるみなら大喜びで着てやるが、本物の怪人になるなど話が違う。
 父さんだってそうだ。
 他の多くの、元は普通の人間だった者達の心はわからない。知る手段などありもしないが、自分や父親の心くらいなら想像できる。父さんだって、その時は光希と同じで、仮面プリンセスに倒されての死を望む――そういう男だと、信念を持つ父親だと信じている。
 だからこの手で助けたい。
 小さかった自分をここまで育ててくれた人だから、今度は自分の手で父さんを――。
 
 ――待ってろ! 父さん!
 
 光希はバイクシートに跨って、その指貫グローブを嵌めた両手にアクセルグリップを包み込む。エンジンの音が鳴り、発車準備の操作を整えると、ゆったりと速度を上げていき、やがてすぐさま、百キロを超えた速度域で目的地へ向かっていく。
 ローズブレスに行くべきルートのナビゲーションが表示されていた。マップ画面に浮かんだ道順には赤いラインが、さらに現在地を示す矢印までもが、目的地への進行状況を丁寧に教えてくれる。
 この先にあるのはテェフェルに占領された建物で、今や数ある基地の一つとなり、世界征服の足掛かりとして利用される施設がある。隼乃が教えてくれるのは、単にここに違いないという勘なのだが、画面には『改造施設有り』との表記もあった。
 改造手術の可能な設備があり、あのホテルからなるべく近く、辰巳を迅速に怪人に変えうるという条件と読むのなら、確かに他には考えられない。
 さらに言えば隼乃は日頃からテェフェルの調査に奔走しており、テェフェルに気づかれることなく手にした情報も、大なり小なりあるはずで、希望的観測を言えば「この場所は隼乃にはバレていないはず」という気持ちが、ひょっとするならテェフェル側にはあるはずだ。
 しかし、例えそうだとしても、向かっていればテェフェルも気づく。
 
「イー!」「ギー!」「ケイィッ!」
 
 三人の戦闘員が、三台のバイクを横一列に、光希の背後へ距離を縮めつつあった。
 正面にも――。
 
「ギイ!」「ギッ!」「キィ!」
 
 三台と三台。前方と後方がどちらも塞がれ、ならば速度を上げる光希は、超速に任せて迷わず突っ込む。向こうからも速度を上げ、前方戦闘員は車上で剣を構えるが、ウィリー走行で車体を立てればタイヤが盾で当たらない。
 すれ違い際に二台と接触。豪速に擦られた二台は面白いほどにバランスを崩し、転倒した車体がガソリンをこぼして摩擦熱で発火する。局所的な火災に飲まれ、事故死とも焼死ともつかない最後を迎えた二人を追い抜き、炎の中から残る四台が光希を追った。
 追跡を逃れるため、一刻も早く父の元へたどり着くためにも、光希はさらに速度を上げる。
 四台を遥か後方に引き離すが、その代わりのようにして、正面上空からは黒いヘリコプターが迫っていた。
 兵器になど詳しくはない光希にも、軍用ヘリであると見た目でわかる。緑と茶色を混ぜたミリタリーの彩色と、観光ヘリのような丸っこさのない、言ってみれば戦闘機に近い物々しさで、車体の両サイドには飛行機の羽に当たるものを生やして、そこに銃器を取り付けていた。
 かなりの速度でバック移動が可能らしい。ヘリが大型犬ほどの大きさに見える距離感で、ブラックルーザーの超速にも関わらず、一定の間隔が維持され続ける。
 そして、光希は自分がいかなる方法で狙われているのか静かに悟った。
 改造人間には及ばないが、普通の人間としては秀でた視力で、銃口の角度が調整される瞬間を確かに捉える。ではいつ、どのタイミングで発射されるか。今すぐか。数秒後か。運転席でその操作をする動きまでは見えはしない――よって読めない。
 読みようのないものは、運任せや直感でかわすよりほかはない。
 あんなものを浴びたら一瞬で終わりという緊張感に、冷や汗でシャツも下着もしっとりと、額にも玉の形となった水分が浮き出ている。それが速度の風に乗り、肌を離れて遠くへと、光希はその瞬間に車体を一メートル横にずらした。
 それと同時だった。
 おびただしく吐き出された弾の雨が、一瞬前まで光希のいたところを、面白いほどに路面をえぐる。ハチの巣などという言葉より、砕けた瓦礫がさらに大量の弾を浴び、削れるだけ削れて砂と化し、路面のその部分だけを砂利に変えてしまう勢いだった。
 ヘリコプターの位置がサイドへ動く。当然、光希に弾を命中させるための位置調整だ。
 再びの発射は何秒後か。一秒か、二秒か。早く避ければそれに合わせて狙いを変えられ、遅く避ければ間に合わずに銃殺される。あの路面のあり様を考えるに、人間ならば骨が砂利へと変えられて、ひき肉をそこら中に散らした死に方にでもなるわけか。
 とはいえ、人間――否、戦闘員が撃つ以上は、必ず標的を見て撃っている。的が動かないかとタイミングを見計らい、しかるべき瞬間に撃とうと照準を合わせている。
 対人戦で正面から向き合っての条件なら、光希にとってはいくらでもできる技術だが、果たして軍用ヘリのパイロットには通じるか。光希はハンドルを右へ切り、今まさに右へかわそうとしているのだと、そんなポーズを見せびらかそうと、是非とも右側に撃ってもらおうとするフェイントを試していた。
 即座に左へ変え、車体は丸ごと左サイドへずれていき、まったく同じタイミングで路面の一部が再び粉塵と化していた。
 いける、かわせる!
 と、対ヘリの立ち回りについて感触を掴むなり、開いた戸から一人の戦闘員が身を乗り出し、肩に担いだバズーカ砲を発射してきた。
 大きな爆炎が巻き起こった。
 バイクを軽く揺するほどの爆風と、その風に乗せられた熱気が全身を飲み込んで、光希は横風に煽られる。かなり危ういほどにユラユラと、バランスを崩した光希は、必死の思いで体重を使いこなして立て直す。
 だが、二発、三発と、炎と煙の巨大なキノコが生える爆発が繰り返され、そのたびにバイクが風に揺らされる。爆風が真横から、後ろから、正面から、ありとあらゆる角度から光希のことを煽り続けて、こうなると光希はすぐに気づいた。
 銃殺というよりも、揺らし続けてそのうち落とすつもりに違いない。このスピードで転倒すればどうなるか。考えるまでもない。かといって間に合わなければ父さんが改造される。後ろから四台のバイクが追い付いても来るだろう。スピードのおかげで助かっているのにバズーカが当たる確率も上がってしまう。
 ――くっ、だったらここは……。
 光希は立った。
 ハンドルから両手を離し、直立姿勢となったその腕には、隼乃から託されたローズブレスが装着してある。
 
「変……!」
 
 ドレスアップシステムの起動に必要な手順。モーションコード。つまり、装着者が特定の動作を取ることが起動パスワードの入力に当たり、システムにスイッチを入れて変身機能を覚醒させる。
 そのモーション過程で両手の拳を握り締め、みしみしと指貫グローブと骨が軋む音が鳴るほどに、強く強く拳を固めた。
 その瞬間だった。
 
 ブラックルーザーの車体が丸ごと浮き上がった。
 
「……なっ!」
 爆発直前のポイントへと、もろに突っ込んでしまったのだ。幸いにも車体の真下で、だからバイクが盾にはなるも、そんなことはどうでもいいほど車体ごと光希は舞い、何メートルも高くをふわりと漂う。
 このまま落下すれば――死!
 しかも、空中で身動きの取れないところへと、追い打ちのごとく銃弾の雨が迫って、よもや光希は自分の命がこれまでであることを覚悟していた。
 
     ††
 
 冗談でなく、部屋が残らず消えていた。
 殴り合いで二人の身体が何度も吹き飛び、それが壁に穴を空け、お互いが交わした打撃でいたるところに亀裂は走り続けていた。そのうちにシルバーXは威力の高い技でサターナを狙い、しかしそれをサターナは逃げ切り、ついにはこの階全てに存在する壁を撤去して、その瓦礫をまんべんなく敷き詰めた、広々とした空間が出来上がるにまで至っていた。
 二人の肉体には、当然ダメージが蓄積している。打撃を出し続けた筋肉消費も、スタミナの目減りもある。
 だが、疲弊とダメージで順調に動きが低下していくシルバーXに対して、サターナは逆に元気になっていた。
「あぁん! いまのいたーい!」
 シルバーXの拳がもろに当たって、切れた唇から血を滲ませて、それが嬉しいようにサターナは嬉々とした表情を浮かべている。
 サターナの姿はとても生きた人間のものではない。
 ボロボロに千切れたメイド服には、搾ればバケツにたっぷり溜まりそうなほど、大量の血が染み込んでいる。その血のせいで瓦礫の粉や埃が付着して、汗でべたつく肌にも汚れが付き、その肌もそもそもアザまみれで、何なら手足は何度か折っている。サターナは力で強引に骨折を戻して、使えなくなったはずの四肢を未だに使い続けているのだ。
 そんなサターナの見た目を表現するなら、なったばかりでまだ腐敗の箇所がない、とても新鮮なゾンビとでも言うべきか。
「…………」
「だからシルバーちゃんにはもっと痛いのを返してあげる」
 そんな言葉を、親切が嬉しいからお礼をあげるかのような口調で。
「………………」
 シルバーXはあれから始終無言でいた。
「ねえねえ、もうちょっと喋ろう? コミュニケーション! せっかくの殺し合いにはトークで花を添えなくちゃ!」
「……」
 もちろんシルバーXは口下手だ。本当のところは内向的で、かつて滝見零と仲良くなったのも、向こうから構ってもらえるのを待ってのことだが、今のシルバーXは単純に戦うことに集中している。なのに話しかけられても困る。だから慣れ合いの言葉には反応しない。
「私ね。痛いのも苦しいのも大好きよ? どうやってこれ以上のものを相手に返そうって考えると、もうそれだけでワクワクして、本当に本当に楽しいの!」
「……」
「だから、骨を折られるのも、肉を裂かれるのもいいんだけど、普段の特訓で苦しい思いをするのも悪くはないわ。だって、私の味わったその気持ちを、誰に返してあげようって、腕を磨いた後には必ず楽しみが待ってるもの」
 勝手に喋ってくれるおかげで、邪心少林拳への理解が、つまり敵が使う技術への理解がシルバーXの中では深まっていく。『気』の力と精神を直結させ、その磨き上げた精神を極意とするわけだが、サターナは何かに夢中になるという境地で実力を発揮している。
 人は何かに夢中になると時間を忘れ、いつの間にか夜になっても気づかない。物事の楽しさや面白さの深みに嵌った境地へと、精神行法によってコンビニ感覚で出入りして、傷つけ合うことを積極的に楽しむのだ。
 相手をだんだん動けなくして、もう抵抗できなくなったら勝ちという、サターナはそういうゲームを楽しんでいる。
 楽しむ努力、などではない。『境地』への出入りは精神的な技術であり、訓練で磨いた集中力が必要だが、楽しむ心それ自体には何らの努力や苦労も必要ない――楽しいのだから。
 サターナという少女の、性癖に磨きをかけることで辿り着く精神性と、そこに『気』の力を繋げた拳法は、もはや実在の少林拳の原型を留めていない。
 改造人間の体に合わせ、常人には不可能な動きやスピードを取り入れたテクニックなど、この世界の感覚から言えば、実在しない架空の拳法とでもとするのが早いだろうか。
 基礎の極意を知り尽くしてこそ基本を崩し、ただの初心者から見れば滅茶苦茶で、いい加減に見える戦い方いには、それでも本当は基本を大切にした合理性が含まれる。元はどんな流派の教え子だったか。香り程度しか残っていないが、素人が舐めてかかって踏み込めば、そこで瞬殺という側面もあるわけだ。
 理解が深まるにつれ、初めて戦った時に比べて、遥かに次の一手が見えてきた。
 それでいて、時間が経てば経つほどシルバーXの方が苦しい。後半になるほど強くなる特性ならば、一気に攻めて早期決着を狙うのが当然だが、そうしようと思ってできる相手などではない。
 銀色の変身衣装が赤く汚れて、血みどろなのはお互い同じ。傍からすれば同じだけのダメージに見えたとして、実のところ先にサターナが血まみれに、だんだんサターナが受けるダメージが減っていき、後からシルバーXもサターナと同じだけになっていた。
 特に、左腕。
 利き手の方が右腕よりも痛めつけられ、負担の大きいパンチ技が左腕では放てない。不可能ではないが、右で打つ方がマシなほど、威力は低下していることだろう。
 早期決着の失敗は、着実にシルバーXを追いつめていた。
 この流れなら、あとはシルバーXだけが血を流し、サターナにはもうダメージが増えることはない。
「タァ!」
「トォウ!」
 コンマ一秒以内の誤差しかない、全く同じタイミングでパンチを出して、その拳を先に相手の身体に届かせるのはサターナだった。一発を受ければ邪神少林拳の型に持ち込まれ、続けてさらなる技を浴びせられる。
 それを避けるために地面を蹴り、迅速なバックステップで距離を開いた。
 ……どう出る?
 ここまでスピードが上がっては、よもや肉弾戦では自分が不利。武器を使う判断で、シルバーXはベルトに括り付けてあるケースから、一枚のカードを選び抜こうと、カー度の束に指を添わせる。
 感触でわかった。
 ――一枚足りない。
 それも、たった今使おうとしたものが狙ったように欠けていた。カードを紛失するわけがない。だとしたら、いつから無いのか。考えられるのは、まさにサターナと何度も距離を縮め合い、関節技までかけ合っていた瞬間だけだ。
「あれ? 探し物ってこれかしら?」
 シルバーロッドのカードはサターナの手にあった。
 いつからなんてどうでもいい。
 ただ一つ理解すべきは状況が悪化したという一点のみ。
 仮設式異空間。つまり、極小の別次元を発生させ、物置として利用するわけだが、カードにインプットした物質情報を機材で読み込み、あちらとこちらを繋げて取り寄せる仮定がいる。カードが取られたとて、奪われた武器をそのまま使われるわけではない。
 もう一つ。
 これ以上サターナが元気になったら手に終えない。あと一撃で仕留められないのなら、いっそ下手なダメージは与えない方がマシではないか。様々な計算を頭に加え、戦闘の流れを頭の中に何十パターンにも及んで組み立てる。
「えっへへぇ」
 サターナは奪ったカードを自慢げに見せびらかし、緩やかな足取りでシルバーXに迫っている。合わせて後退していくシルバーXは、腰の高さほど積み上がった瓦礫の気配を背後に感じ、サターナの駆け引きの上手さに顔をしかめた。
 地形を計算に加え、逃げ腰の獲物を追い詰めていくように、サターナはシルバーXの動きをコントロール。それ以上下がれば、瓦礫が小さな壁となっているのは、いざ歩法に移る際に制約や支障が出る。対してサターナは小石程度のものがちらかっただけの、シルバーXに比べて遥かに動きやすい位置を確保していた。
 さては周辺の破壊でさえ、自分が有利になる計算をサターナはしていたか。
 シルバーXは慎重に耳を澄まして、サターナの足取りと呼吸音に神経を集中する。相手がいつ仕掛けて来るかのタイミングを見極め、カウンターを仕掛けようと目論みながら、足の親指に意識をやった。
 足の指で地面を押すかのようにして、その重心移動で前へ出ながらパンチをかます。
「えへ」
 サターナの口元が笑んだ。
 その途端、来るという予感にかられ、シルバーXは素早く踏み出す。
 
「シルバァー! 爆弾ッパァーンチ!」
 
 それは相手の内部を破壊するための必殺技。
 よもやカウンターよりも一歩進んで、相手が動こうとした出鼻を挫く。この一撃で決めるつもりで技を放って、シルバーXはもうパンチを放ってしまった直後に気づいた。
 ――誘いにかかってしまった。
 サターナはシルバーXの狙いに気づき、今このタイミングで攻撃しますと、表情や指先の細かい挙動だけでアピールしての誘導だ。パンチを出そうとする気持ちの時点で反応できるのなら、逆に言えば攻撃しようという気持ちを露骨にするだけで、言ってみれば精神的なフェイントをかけることも可能なわけだ。
 相手の思う通りに動いてしまったシルバーXは、当然ますます追いつめられる。
 サターナもまた、シルバーXが動いた直後に動きを見せ、シルバーXを目掛けて踏み込んでいた。シルバーXの拳に対し、てっきりチョップをぶつけようとして見えるが、まさかサターナが力比べで勝とうとしてくるはずもない。
 上下すれすれにパンチとチョップがすれ違い、その際にサターナの手の平に隠れていたカードが、エックスブレスの挿入口に差し込まれていた。
 カードを差した時点で読み込みと物質取り出しが起きる設定にしているため、シルバーXの左手には望む望まざるに関わらず、どうしてもシルバーロッドが出てしまう。
 一瞬の流れの中、まだ腕に接触するすれすれの位置を通り抜ける途中のチョップの手は、しかし途中で指を折り曲げ、急にシルバーXの左腕を掴んでいた。
 パンチによって腕が伸び切るその瞬間へと、サターナはさらに前に踏み出して、まるで大魚を両腕に抱きかかえるかのように、シルバーXの左腕に取りついた。
「てい!」
 膝で蹴り上げ、関節を破壊しようとしてきた痛みがずきりと走る。ついでのように手首には爪が食い込み、手際よく拳まで入れられて、握力の弱ってしまうシルバーXは、そうして武器を奪われてしまうのだった。
 まさか、こんな風にシルバーロッドを奪うとは……。
 密着可能な距離からサターナを逃がすまいと、必死に右腕を伸ばしてみるが、そうはいかずに逃げられる。横方向への重心移動で身体がスライドして、掴もうとするシルバーXの手は空振りに終わっていた。
 そして、サターナの棒術がシルバーXを襲う。
 リーチの長いロッドの中央を握り締め、回転を交えて両端で殴打する。武器とは身体の延長であり、手で振り回すというよりは、身体操作の一環として、腰の回転や重心移動と共にシルバーロッドは運ばれる。
 鋭い突きがシルバーXの喉をつぶし、鳩尾を貫き、肩と肘と膝ばかりが叩かれる。もはや一方的な暴力にしか見えないほど、シルバーXは受けも回避も間に合わず、壁際に追いつめられたままに殴られ続けた。
「ねえねえ! 反撃しないとつまんないよ! ねえ、ねえってばぁ!」
 自分で反撃を許さないようにしていながら、目が本気で強請っていた。対戦相手がきちんと戦ってくれないと、ゲームをやってもつまらないと、そう言わんばかりの強要じみたおねだりである。
 一撃ごとに骨のヒビが広がって、筋肉の断裂箇所と青いアザが増え続ける。顔を赤いペイントで塗りつぶした程になり、その出血が白銀衣装までに及んで、ポタポタと水滴を垂らすぬかるみさえなければ、初めから赤い服を着て見えただろう。
 だが、反撃ができないついでに、シルバーXはこのまま甘んじて打たれ続けた。
 もちろん、好きで抵抗しないわけではない。ないのだが、やがてこの状況を利用できることに気づいてから、静かにタイミングを伺って、ここぞというべき瞬間めがけてエックスブレスのタッチ画面を操作した。
 シルバーロッドのカードを排出させ、すると武器は即座に仮設式異空間に返還される。ちょうどロッドで殴ろうとしていたサターナにとって、急に武器が消えるのは、意味のない空振り動作をやってしまうことと同じであった。
 当然、シルバーXは大きなチャンスを見逃さない。
 
「プロペラ十字キィーック!」
 
 足裏に現れる『X』の文字が超回転。空気を切り裂き、周辺の埃を丸ごと散らして消し飛ばすほどの風圧が放たれる。鋭い切れ味と回転数を足の裏側に張り付けて、そんなキックが腹部に命中するに、サターナの血肉がおぞましく抉れて散った。
 ミキサーで皮膚と肉をかき混ぜてしまったような、回転に巻かれて千切れたものが、もう少しでジュースになりそうなほどに液状に近い挽肉が散らかった。肉の掘削で埋まった左足には、皮袋がぶちりと弾ける感触が伝わっており、内臓まで細切れにしたことを感覚で理解した。
「…………」
 ふらふらと、サターナは力なくふらついた。立っていられないように膝をつき、腹から文字通りの赤い滝を垂れ流す。腹と呼べる領域が、腹筋はもちろん向こう側にある背骨まで、プロペラ十字キックで埋めた足は達したのだ。
 ミキサーで身体を欠損させ、腹の中身を丸ごと掘り返してしまったのと同じである。そんな穴から血は流れ、サターナの見た目には華奢な少女でしかない肉体に、こんなにもたくさんの血が詰まっていたのが不思議になるほど、赤い円は広く何メートルにも広がった。
 完全に、サターナは沈黙していた。
 
「トドメだ!」
 
 シルバーXは何歩か下がり、適度に距離を開いてから、数歩の助走をつけたジャンプで身体を空中に舞い上げる。ボディの角度を調整していき、フィニッシュのために放つのは、もちろんいつもの――。
 
「シルバー! 十字キィィィック!」
 
 足裏にアルファベットを張り付けたキックが、サターナ目掛けて一直線に迫っていく。
 その時だった。
 
「えっへぇぇえええ!」
 
 今までにないほど嬉しそうな、人生最大の幸福の中にでもいる笑顔を浮かべて、これまでにないほど楽しそうに笑っていた。
  
「えっへへへ! すごいすごいすごい! こんなに痛いの初めて! すっごーい!」
 
 ますますサターナのテンションが上がっていた。
 そして、キックが相手に触れる直前で、シルバーXはやっとのことで、サターナが怪人となった姿を目の当たりにした。